はじめての土下座

作・たぬべえ

青山守人はいい気になっていた。 部下のＯＬ、佐々木弘美に 「好きです」 と言われた。 舞い上がった。 まぁ、40男が25歳のＯＬから告白されて舞い上がるのを誰が責められようか。 だが、妻子あるまともな男は、普通は一線を越えようとは思わないものだ。超える場合は覚悟を決めるか、絶対にバレない自信がある時だけだ。 守人は弘美を飲みに誘い、その足でホテルへ向った。 「君の気持ちに応えたいと思う」 守人は言った。 「じゃ、奥さんとは別れてくれるのね」 弘美が言ったら、守人は詰まった。やはりその覚悟はなかった。 「ずるいよ」 弘美はそう言って、守人の胸に飛び込んだ。甘い弘美の髪の香りが守人の鼻をついた。 「ちょっと考えさせて欲しい」 守人は言った。 「わかった。待ってる」 弘美は言うと走り去った。 そして、家に帰ったら、すぐに浮気がバレた。 守人のワイシャツにべっとりと弘美の口紅がついていた。 「言い訳はしなくていいから」 妻は言った。 そして、簡単な着替えだけまとめると出て行った。 えっ？　まだ何もしてないのに……。こんなことなら、弘美としておけばよかった。 守人のそれまでの人生は順風満帆だった。 Ｘ大学経済学部を出て、Ａ社に就職。40歳で課長になった。仕事はバリバリこなしてきた。 結構イケメンでもあったが、何故か恋愛とは無縁だった。 先輩が心配して早苗を紹介してくれたのが30歳の時だった。 見合い結婚のような形で、早苗と結婚。二人の子供も授かり、ローンを組んで家も買った。 そら、弘美は魅力的だが、そのすべてを捨てて彼女と行くわけにはいかないよなぁ。 このまま離婚になったら、どうしようか。 家は慰謝料代わりに妻に取られるんだろう。 子供はまだ小学生だから、妻とここに住んで、守人はローンと養育費を払わねばならない。 給料の半分はそれで消える。 いくら大企業で高給をもらっているからって、半分の給料で弘美と新しい生活をはじめるのは結構しんどいぞ。 そこそこのマンションを借りて……。ギリギリの生活じゃないか。 25歳の弘美に何も贅沢をするなとは言えない。まぁ、弘美にも働いてもらうとして、でも子供が出来たら。その教育費もいるし。 守人は一睡も出来ずに、会社に行った。 「青山君、どうしたんだ」 部長が心配して声を掛けて来た。 「なんでもありません、その……」 「浮気でもバレて、奥さん出て行ったか」 「なんで、わかるんですか！」 部長は冗談で言ったのだ。 守人の反応に部長のほうが驚いた。 「ちょっと、ランチに付き合え」 部長と個室の和食屋へ行った。 「謝っちゃえ」 部長が言った。 「お前のことだ。出来心だろう。謝っちゃえよ。それでチャラだ」 「謝れば許してくれるでしょうか」 「土下座くらいはしろよ」 「土下座！」 「そんな驚くことはないだろう。 　俺も五年前、土下座で許してもらった」 「でも土下座なんて男の沽券に関わりませんかね」 「離婚してもいいけど、仕事に支障はきたすなよ」 「は、はい」 「奥さんの携帯番号教えろ。 　お前が掛けても電話には出ないだろうから。 　土下座で済めば安いものだぞ」 確かに。 慰謝料、養育費を考えれば、土下座で済めば安い。 いい先輩は持ちたいものだと守人は思った。 夜、家に帰ると、早苗はリビングにいた。 子供たちはもう寝たらしい。 「で、どうなさるんですか」 早苗が言った。 どうなさるもこうなさるもない。守人は床に正座して、両手をついて頭を下げた。 「バカね。土下座なんてみっともない真似するくらいなら、浮気なんかしなきゃいいのに」 「すまん」 守人が床に頭をこすりつけると、早苗は思わず、プッとふき出した。 「誓約書を書いてもらいます」 「えっ？」 「二度と浮気をしないこと。 もし浮気をしたら、全財産を私と子供たちに渡して、パンツ一丁で家を出て行ってもらうこと。その条件で、今度だけは許してあげるわ」 「ありがとうございます」。 守人はふたたび頭を下げて、早苗の条件を飲んだ。 これはむしろ高くついたのではないか。 いや、もう浮気をしなければいいだけのことだよな。 弘美とも一悶着あった。 だが、それはすぐに収まった。 やはり部長が手をまわしてくれたようだ。 先輩ＯＬに説得されたらしい。 守人は早苗だけでなく、部長にも生涯頭が上がらなくなったようだ。 ちっとも安くない土下座だったようだ。 二週間後、弘美に呼び止められた。 「お願いがあるの」 「なんだよ」 「仲人やってくれないかな」 「仲人！」 「今度、私、結婚するの」 「結婚だって！」 聞けば、相手は新人の長瀬裕だという。 年上好きじゃなかったのかよ。 「彼、将来有望だから。 仲人は今の重役さんに頼んでも先がないから。 青山課長なら、彼が課長の頃に重役で、彼にとっても課長にとっても悪い話じゃないでしょう」 っていうか、出世しそうな男なら誰でもいいのか？ 「俺と別れて二週間しか経ってないのに結婚って」 「だって、彼ったら土下座して結婚してくださいって頼むんだもの」 長瀬よ、ここで使うか、土下座カードを。 それにしても、土下座でプロポーズかぁ。最近の若い奴は、男の沽券がないのかねえ。

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