塞翁が馬

作・たぬべえ

８

進一はまたハローワークに行き、いくつかの会社の面接を申し込んだ。 あまり色よい返事は得られなかった。 とりあえず糧を得るために、求人誌に出ていたチラシ配りのバイトをした。 丸一日チラシを配り、10000円もらった。 「明日も来てくれないかな」 チラシ配りの手配師みたいな奴が言った。 「いいんですか？」 「うん。結構若い奴らやりたがらないんだよ」 「明日も同じバイト代？」 「もちろん」 10000円もらえれば。ありがたかった。 「土日は13000円出すよ」 「マジですか」 一週間やって、76000円もらった。 とりあえず家賃と電話代はなんとかなる。 だが、一日チラシ配りはへたばった。 牛丼を食べてアパートに帰ると、そのまま寝てしまった。 もう一週間やった。 真由美からは何も言って来なかった。 真由美はおろか、あゆからも連絡はなかった。 電話しようと思ったが、翌朝まで熟睡していた。 疲れるが。週76000円、これ毎日やっていれば、うっかりしたところでバイトするより高収入じゃないか。 ただ黙々とチラシ配るだけだけれど。 懐に76000円あった。 翌日は休むと手配師に告げた。 「うん。休まなきゃ、もたねえぞ」 手配師は言った。 久しぶりに飲みに行こう。 安くてうまい魚を食わせる店に行った。 1000円の中トロを久しぶりに食べた。 焼酎を四五杯飲んで、5000円でお釣りがきた。 たまにはこのくらい、いいじゃないか。 しかし、帰り道、また涙が出て来た。 丸二週間、ただ黙々とチラシを配って。 そう言えば、あゆからも連絡ない。 どうしたんだろう。 真由美から、紅葉の件がうまくゆかなかったことを聞いたのか。 泣きながらあゆに電話したが。出ない。 二度三度掛けたが出なかった。 「話したい」とだけメールした。

★

あゆは。 進一のアパートから帰った日に。 会社に行く途中、事故に巻き込まれていた。 駅で将棋倒しになった。 一日入院を余儀なくされ、しかも携帯が壊れた。 データが消失した。 いの一番で進一に連絡がとりたかった。 進一の連絡先がわからない。 しかも、進一からも連絡が来なかった。 会社に行けば、誰かに聞けば進一の連絡先がわかるはずだが。 真由美になら、進一とのことを打ち明けてもいいかと思ったが、何故か会社に行った日から、真由美が暗く沈んでいた。 何があったの？ 「ギャーッ」 大塩初美が叫び、自分のデザインした服をビリビリに破いた。 「いいわよ。やめてやる！」 初美が部屋を出て行った。 「主任、今のは言い過ぎですよ」 松子が言ったが、真由美は唇を噛んだまま黙った。 な、何があったの？ 松子が初美をなだめて、とりあえずは落ち着いた。 その日、松子が、初美、小百合、あゆを居酒屋に集めた。 「紅葉とのライセンスか契約が難航しているらしい」 松子が言った。 「会社が提示した契約書見たけれど、紅葉に言わせれば、ふざけろ、という金額よ。 間に入って主任は辛い立場らしい」 初美は黙った。 「あゆちゃん、怪我は？」 小百合が聞いた。 「あっ、大丈夫です」 あゆが答えた。 「どうすりゃいい？」 小百合が松子に聞いた。 「わかんないわよ」 「中山君……」 あゆがポツリと言った。 「彼なら、なんか知ってるかも」 「話はしたのよ」 松子が言った。 「何も知らないみたい」 「でも何があったのか、知ってるかも。 私が」 「あゆちゃんが？」 「私が聞いてみようと思うけれど……、私、中山君の連絡先、知らないし」 「あー、それなら教えてあげる」

★★

二週間ぶりに、あゆからメールが来た。 「会いたい」 いまさら、どの面で会うんだよ。進一は無視した。 というより、チラシ配りで、ただただ疲れていた。 翌朝もチラシ配りに行こうと、アパートを出た。 電柱のところに女が立っていた。 まさか……。 あゆだった。 あゆが目に涙をためて進一を見ていた。 なんで？ なんでいまさら、来るんだ？ もう俺には未来なんてないんだ。 進一は走って逃げた。 あゆはバス通りまで追って来たが、進一はたまたま来たバスに飛び乗った。 あゆはバス停のところでじっとこっちを見ていた。 何度もメールしたが返事はなかった。 だから、あゆは進一のアパートに行ったが。 部屋を訪ねるのはためらった。 なんで連絡くれないのか。 その理由がわからなかった。 もしかしたら、新しい彼女が出来たのか。その可能性もないわけじゃない。 朝まで、待った。 出て来た進一は逃げた。 なんで？ 追ったが、走ってバスに乗って行ってしまった。 あゆはどうしていいのかわからなかった。 ふらふらと、いつかのバーの前にいた。 朝だから。当然やってない。 会社に行く気はしなかった。 ネットカフェに入った。 疲れていたから。 そのまま寝た。 進一の夢を見た。 知らない女の尻を舐めていた。 やっぱり。 進一には新しい彼女が出来たんだ。 で、あゆはネットカフェで寝ていた。 そろそろあのバーが開く時間だ。

★★★

あゆはバーに行った。 「おや、また来たんだ」 マスターが言った。 あゆはマスターの顔を見るなり号泣した。 「しょうがねえなぁ。今日は店休みにするか」 店にいると客が来る。 そうマスターは言い、あゆを近くのラブホテルに連れ出した。 「そんなつもりじゃ……」 「じゃ、どんなつもりなんだ」 マスターは言った。 「ただ話を聞いて欲しくて」 「だったら店で話せばよかった。こっちだって、一日休んだ。どうしてくれる」 「ごめんなさい」 「どうしたんだよ。とりあえず理由を話せよ」 マスターはやはり優しかった。 あゆは事故に遭ったこと、二週間後に進一に連絡したが連絡が出来なかったこと、進一に新しい恋人が出来たんじゃないかと悩んでいると話した。 「答えは二つに一つ」 マスターは言った。 「あゆちゃんがホントに進一を好きなら、奪い取れ。 そんなに好きでもないなら、進一は諦めて俺と付き合え」 「奪い取れないよ。 相手が誰だかもわからない。 凄い美人かもしれないし、お金持ちかもしれない。 進一、Ｍっぽいから、女王様かも」 「だったら、俺がＭ男が喜ぶツボを教えてやる」 言うと、マスターは服を脱いで全裸になった。 わっ……。 マスターのペニスは進一より旬より、はるかに大きかった。 「進一やめて、俺にするなら、いますぐ入れてやるぜ」 「いい。やめとく」 マスターと付き合ったら、一生浮気の心配しなくちゃいけなくなる。 「あゆちゃんも脱いで」 「だ、だから、マスターとは付き合わないよ」 「だから、ＳＭのツボを教えてやるんだよ。 それにはあゆちゃんも脱がないと。 パンツは脱がなくていいから」 微にいて細にわたるとはこのことだ。 おそらく、ソープランドとかに勤めている女性は、こういうテクニックを持っている人もいるのだろう。 男のペニスの弄び方を、マスターは丁寧に教えた。 「まぁ、この技があれば、進一ともしうまくいかなくても、たいていの男はあゆちゃんの奴隷になるよ」 この技がなくても男に困ることはないとは思うけれど。 「でもいつかは役立つ。 そうね、あゆちゃんが四十歳くらいになったら」 そう言ってマスターは笑った。 まったく得体の知れない男だ、とあゆは思った。

★★★★

進一はチラシ配りが終わっても家に帰る気がしなかった。 もしかしたら、あゆがいるかもしれない。 たまらなく会いたいのだが、やはり今の自分はみじめ過ぎて会えない。 ネットカフェに行った。 安楽椅子に座ったら、なんとなく、あゆの匂いがしたような気がした。 気のせいだ。 駄目だ。あゆを忘れられない。 だが、チラシ配りの疲れで、そのまま眠りに堕ちた。 携帯が鳴って目が覚めた。 メールか。誰からだ。 というか、ここはどこだ？　 あっ、ネッカフェで寝ちゃったんだ。 メールは……。 えっ？　 紅葉だった。 翌日の昼、ホテルのレストランで紅葉と会った。 「なんか食べる？」 紅葉が聞いた。 進一が何気にメニューを見たら。 一番安いカレーが4000円だった。 「コーヒーでいいです」 コーヒーも1200円だ。 多分、紅葉が奢ってくれるだろうが、万が一には席を蹴って帰るから、その時は金は払わなきゃならないだろう。 「君、いま、仕事は何してるの？」 紅葉が聞いた。 それを聞いてどうしようと言うのだ？　 紅葉の真意がわからない。 「とくに何もしていませんが」 「働く気はある？」 ないわけないだろう。 というか、働くチャンスを奪ったのはお前だろう。 「いやね、僕、会社作ることにしたんだ」 紅葉が言った。 「会社？」 「そう。僕のライセンスの管理と、あと、僕の弟子といったらおこがましいけれど、若いデザイナーのマネージメントをする会社」 「そうですか」 「今度のことでね、ほら、間君との会社の契約、結局流れたけれど、あれも会社があって、最初からビジネスライクで話をすれば、お互い歩み寄れるところはあったかもしれないと思ってね」 「で？」 それで進一になんの用があるんだ。 「うちの会社で働かない？」 紅葉は言った。 えっ？　どういうことだよ。 と聞こうとしたら、紅葉は進一の言葉を押さえた。 「間君の会社でいくらもらってたの？」 紅葉が聞いた。 聞かれるままに、進一は給料の金額を言った。 「そう。じゃ、その三倍出すよ」 紅葉は平然と言った。 「そんなに！」 「だって、うちの会社、出来たばかりで仕事忙しいと思うし、僕はいろいろ無理言うと思うし、三倍じゃ少ないかもしれないけれど、働きによっては昇給も考えるから。どう？」 「なんで、僕なんです？　真由美さんなら」 真由美だって、三倍はもらってないだろう。 「間君は、今の会社を辞める気はないと思う、そういう律儀な人だから。 君はいろいろ使えそうだしね。それと僕と似ているところがある」 似てねえよ。 いくらなんでも、そんなに禿げてはない。 いや、紅葉の年齢になったら禿げるのか。 「間君から聞いているだろうけれど、僕、姉がいてね。 子供の頃、姉や、姉の友達にずいぶん、いじめられていたんだ」 紅葉は言いながら、運ばれて来たコーヒーを飲んだ。 「どうする？」 紅葉は言った。 考える余地はない。 正社員になれるのなら。 だが、紅葉には騙された過去がある。 しかも紅葉の悪戯で。 「僕はライセンスとかの知識、ないですけれど」 「勉強して」 紅葉はそう言うと、ニコっと笑った。 紅葉っていうのはそういう人なんだ。 とにかく自分の気分で動くんだ。 ある意味、天才。 ある意味、迷惑。 なら、信用してもいいんじゃないか。 「とりあえず、仮の事務所は僕の家の近くのマンションを借りたんだ。 来てみる？」 紅葉とマンションに行った。 2ＤＫのマンションにデスクが三つにパソコンが三台、奥のデスクに初老の男が一人いた。 「一応、彼が社長。奥田さん」 「一応ってなんだよ」 奥田は笑いながら言った。 「だって、ずっとはやってくれないでしょう」 紅葉が言うと、ふんと笑った。 「さっきのライセンスの件、奥田さんに教えてもらって。 彼、弁護士だから。 悪徳弁護士で、事務所クビになったんだ」 「おいおい、脅かしちゃ可哀想だよ。 俺、六十五歳。 今までいた弁護士事務所、定年退職してね。 モミちゃんとは飲み仲間で、呼んでもらったんだ」 奥田は言った。 「とりあえず、奥田さんと、中山さんと、あと、雑用やるバイト二人くらい雇ってはじめるか。 中山さん、心当たりがあれば、君が使いやすい人、雇ってくれていいよ」 「僕は雑用で雇われるんですよね」 進一が聞くと、 「雑用に高い給料は出さない。きっちり仕事はしてもらう。 とりあえず、中山さんは営業部長でいい？」 「営業部長！」 人間万事塞翁が馬だ。 進一は思った。 無職から、社員二人とは言え、営業部長かよ。 翌日には、奥田から「営業部長」の肩書き入りの名刺を渡された。 「やりながら覚えればいいから。わかんないことは聞いてね」 と奥田は言うが、そんな仕事が素人に務まるのか。

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