塞翁が馬

作・たぬべえ

７

梅田松子から進一の携帯にメールがあった。 会って話がしたい。 翌日の夕方、繁華街の居酒屋で進一は松子と会った。 「久しぶりに日本酒いっちゃおうかな」 松子は相変わらず陽気なおばちゃんだ。 その松子が、 「酔っ払う前に真剣な話ね」 とマジ顔になり、 「主任と何をしようというわけ？」 と聞いた。 真由美が秋野紅葉になんらかのコネクションがあって接近しようとしているのは知っているが、何をしようとしているかはわからない。 それを進一が手伝っているらしいことは伝わっているのだが。 だから、直接、進一に聞くしかないと呼び出された。 「真由美さんは時々無理しちゃうのよ」 松子は言った。 「私たちに気を遣うし、あんたはわかっているかもしれないけれど、うちの会社って結構上からの締め付けあるから。 その中で芸術家肌の初美や正義感の強い小百合をうまくコントロールするのは難しいのよね」 松子の心配は進一にもわかった。 真由美がただ自分の出世だけのために動いているわけではないことも。 「僕も詳しいことはよく知らされていません」 進一は言った。 松子は本気で、部下としてでなく真由美のことを心配している。 だとしたら「枕営業」なんて話をして余計な心配を増やすことはないだろう。 「わかった。 もしなんかわかったら、私にだけ内緒で教えてね。 初美や小百合や、あゆも心配しているけれどさ。 でもあの子たちに言うと何するかわからないから。 私は、ほら、一応大人だからね」 確かに。 子持ちの松子は真由美より年下だが、チームのまとめ役を担っていた。

★

松子と別れた帰り道、真由美からメールがあった。 別の居酒屋へ行った。 「梅田と会ってたでしょう」 真由美が言った。 「会いました。 でも、何も知らないって言っときました」 「心配掛けて悪いとは思うけどさ。 梅田には口が裂けても言えないよね」 「松子さんだけでなく」 「うん。 初美にも、南にも、神林にもね。 枕営業でライセンス契約、今時何？って、あきれられるよね。 しかもそれに中山君を巻き込んでさ。 私って馬鹿みたい」 「馬鹿じゃないですよ」 「ねえ、もうひとつ相談にのって欲しいことがある」 「なんですか」 「ここではちょっと」 また、この間のホテルに行った。 真由美がベッドに座った。 「君は床ね」 「はい」 進一は床に座った。 「進一君はＳＭは興味ある？」 仕事の時は女たちに顎で使われ、時にはブーツ磨きもしたし、あゆの靴舐め奴隷だった。 まぁ、Ｍっぽいところはあるんだろう。 あゆにピンヒールで踏まれた時は、痛いのは苦痛でしかなかったが、あゆに踏まれていることが心地よかった。 「まぁ、ちょっとＭっ気はあるよね」 真由美には足でペニスを弄ばれて射精したんだ。 「なんでそんなことを聞くんですか」 進一が聞いた。 「うん。 秋野紅葉がＳＭ趣味らしい。 ＳかＭか微妙なんだけれど」 姉たちからいじめられてＭに目覚めたか、もしやその反動でＳなのかもしれない。 「まぁ、いいや。 進一君、脱いでくれるかな」 「はい」 進一は服を脱いだ。 「全部ね」 パンツも脱ぎ。 先日は射精を見られているけれど、やはり真由美の前にチンコをさらすのは恥ずかしかったので。 真由美にチンコを隠すように、真由美の足元に両手をついて頭をさげた。 「うんうん。ちょっとマゾヒストっぽいよ。 いい感じ」 真由美が言った。 結局、進一は裸にされただけで、帰された。 「ＳＭもあり、という覚悟がわかればいいよ」 真由美は言った。 もうこうなれば、ＳＭでもなんでも構わない、と進一は思った。 ここを乗り越えて正社員になれば、あゆと付き合えるのだ。 人生いろいろだ。 なんとか会社に戻れたとして、ホントにスタッフとしてやっていかれるのか。 そんな思いもあった。 前の会社は、使い物にならないと言われてリストラになった。 その後、何十件と会社を受けたが、採用になったのは一社だけだった。 真由美に声を掛けられて、唯一採用されたメンテナンスの会社を蹴った。 人事担当者の「折角採用してやったのに」という罵倒の声を思い出した。 メンテナンスの会社に行って、真由美やあゆのことを忘れて真面目に働く、という道もあったのかもしれない。 でももしかしたら、またリストラになったかもしれない。 そんなのはわからない。 「人間万事馬」だな。 前の会社の上司の言葉が思い出された。 前にニンジンぶらさげられて走るだけだ。 人間は馬なんだ。 真由美の会社にいた時は、五人の女性に囲まれて、居心地よ過ぎたんだよ。

★★

進一は約束の日、紅葉が泊まっている高級ホテルのスウィートへ行った。 そこで真由美と待ち合わせるはずだった。 しかし、真由美は来ていず、そこにいるのは紅葉一人だった。 「間君は来ないよ」 紅葉は言った。 えっ！　もしかしたら罠にはまったのか。 紅葉はホモで、自分が枕営業をさせられるのか。 いくらなんでも、このおっさんとセックスはしたくない。 いや待て、そこを乗り切れば、会社に戻ることが出来、あゆとも新しい人生がはじめられる。 待て。 紅葉はＳＭ趣味だとも聞いている。 ということは、おっさんに鞭で叩かれて、足の裏を舐めさせられて。 いやいや、それも一夜のことだ。 覚悟を決めよう。 進一は自分が縛られて、女装した紅葉にチンポを弄ばれる図を想像した。 気持ち悪くて吐きそうになったが、グッとこらえた。 一時の我慢ですべてがうまくゆく……、かもしれないんだ。 進一は床に正座をして、両手をついて頭を下げた。 「紅葉様、どうかよろしくお願いいたします」 「おいおい、何やってるの？」 「えっ！」 「君はなんか勘違いしてるの？」 紅葉は腹を抱えて笑い出した。 「いや、悪かったよ。 君にも、間君にもね」 紅葉は言った。 「枕営業しろって言ったらさ、あの才女がなんて言うのか、面白半分で言っただけなんだ」 昔、紅葉がデビュー当時、真由美は業界紙の駆け出し記者だったそうだ。 まだ無名の紅葉を最初に記事にしたのは真由美だった。 その後、紅葉が海外で賞をとって、無名の紅葉を見出した記者として真由美も名を上げた。 しかし、真由美は出版社内の揉め事に巻き込まれて、今の会社に転職したんだそうだ。 「間君は今の会社で、記者時代のコネクションは一切使わなかったんだ。 それが彼女のルールみたいに思っていたんだね」 真由美は自らで新しいデザイナーを見つけたり、海外のデザイナーの協力を得たりして、自力でやって来た。 「その彼女が、俺に協力を求めて来た。 信念を曲げて、俺に頭を下げて来たんだぜ」 紅葉は真由美が転職してすぐに、何度か真由美の力になりたいと申し出た。 それを真由美は断わった。 「記者の私と、アパレル業の私は違う」 それが真由美の信念だったはずなのに。 「よほど、会社が苦しいのかね」 会社は苦しいが、「よほど」と言うほどではないはずだ。 おそらく、今の上層部の誰かが、真由美の過去を知って、「昔のコネクションで紅葉を使え」と命じたのだろう。 信念を曲げてでも命令を聞かなきゃならなかった。 それは一体何故だ。 サラリーマンは信念なんて関係ない、会社の命令が絶対、なんていう言葉は真由美には似合わない。 「それでさ、枕営業って、意地悪で言ったら、流石に断わると思ったら、あっさり、いいわよ、と言った。驚いたよ、実際」 あとは意地になって、見られなきゃ駄目だの、ＳＭ趣味だの言って、とうとう三人目の男まで連れて来て。 「結局契約は？」 進一はうっかり言葉を発した。 紅葉の顔がにごった。 結局、進一は、真由美の葛藤なんかどうでもいいんだ。 契約が成立して、自分が会社に戻れるのか、それしか考えていないのか。 真由美がどんな思いでいたのか、自分の考えの至らなさを恥た。 「うん。ごめんね」 紅葉は言った。 「多分、君の意には添えないと思うよ」 「いや、そんなことより、真由美さん……、間主任はどうなるんですか」 「契約をどうするかは一応白紙。改めて、会社が僕の出す条件に応じるか否かの話し合い。 あとはビジネスライクでね。 おそらく、君の会社は真由美さんのコネで、僕を安い金でこき使う気だったろうから、契約は成立しない。 真由美さんは責任をとらされるかもしれない」 「そんな……、真由美さんが責任って」 「真由美さんには気の毒だけどね」 しらっと気の毒で済ますのか？　 真由美のおかげで世の中に出たんじゃないの？　 そら、紅葉にしてみれば真由美が記事を書かなくても、いずれは世に出たんだろうけれどさ。 それを真由美の弱味をからかって、「枕営業」とか言っておいて。 あんたは一体何なんだ。 それに進一も、期待を抱いてしまったんだ。 それは自分が悪いんだが。

★★★

何もかも終わった。 おそらく会社に戻ることは無理だ。 真由美も進一も紅葉にふりまわされただけだった。 紅葉は「ごめんね」と言った。 「ごめん」で済むのか。 進一は受かったメンテナンスの会社を断わったんだぞ。 「うちを断わって他で採用してくれる会社があると思っているの？」 メンテナンスの会社の人事部員が言った言葉が突き刺さった。

８⇒

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