塞翁が馬

作・たぬべえ

５

「何か問題でも？」 メンテナンス会社の人事担当は電話口で不満そうに言った。 「こんなこと言っては申し訳ないが、あなたが正社員になれるチャンスはそんなにないと思うんですがね」 「あー、でも一身上の都合です。 申し訳ございません」 「そうですか。仕方ないですね」 人事の担当者のバカにしたような口調が耳に響いた。 お情けで採用してやったのに、なんで断わるんだ。 進一にしても「採用」のメールが来た時の喜びを考えると、断わってもいいのか、という気持ちが大きいのだが、やはり、あの会社に戻れるのかと思うと、メンテナンス会社のことなどどうでもよかった。 数日後、あゆからメールが来た。 夕方、ファストフード店で会った。 「会社辞めたら、メールもくれないんだね」 あゆが第一声言った。 「だって、知らない男からメールが来たら、彼氏は怒るだろう」 「怒れる立場じゃないよ」 なんだろう。 また彼氏の浮気がはじまったんだろうか。 「主任から聞いたよ」 あゆが言った。 真由美はあゆたちに何を言ったんだ。 「正式にじゃないけれど。中山君が戻って来るかもしれないって」 「そうなんだ」 「そうなんだじゃないよ」 「何を怒っているの？」 「当たり前じゃない」 あゆは言った。 「二度と会わないんならいいけれど、また会えるなら、一言言ってよ」 「どうしたの」 「こんなところで言えない」 「わかった」 ファストフード店を出た。 いつも行っていたカラオケに行こうとしたら、あゆは別の道へ進んだ。 「二人きりになれるところに行こう」 あゆが言った。 「進一をうんといじめたい」

★

別れた時のホテルに行った。 「シャワー浴びてくるから。 パンツ一丁になって待ってて」 あゆはバスルームに消えた。 どういうことだ。 あゆといきなりホテルに来てしまったぞ。 「人間万事……」。 枕営業の手伝い以外は全部このところ、いいことずくめだ。 いや、でも何か大きな落とし穴があるんじゃないか。 落とし穴を掘っている奴がいるとしたら、それは、あゆかもしれない。 進一は言われた通りパンツ一丁になり、床に正座して待った。 あゆと過ごした時間が頭をよぎった。 年齢は離れているけれど。 離れているったって8歳じゃないか。 もしも正社員で雇ってもらえたら。 いままでとは違う。 もしも、あゆがまた彼氏とうまくいっていないのなら。 あゆと付き合っても何も問題はないだろう。 真由美たちも祝福してくれるに違いない。 そう考えると、少しだけ希望が頭をもたげてきた。 とは言え、全部、「もしも」の話だ。 正社員として採用されるかどうかもわからない。 あゆと彼氏が別れるかどうかも。 あゆが彼氏と別れても、進一と付き合うかどうかだってわからない。 足舐め奴隷が彼氏に昇格するのは結構ハードルが高いかもしれない。 だが、希望や夢を持っちゃいけないなんてことはないんだ。 あゆが下着姿で出て来た。 別れた時と同じ、黒のブラジャーとパンティ姿だ。 「ごめん」 進一はあゆの足元に土下座した。 「何にごめん？」 「一度もメールしなかったこと。それに」 「それに」 「あゆちゃんのことが大好きなのに、別れてしまったこと」 「いまでも、あゆのこと好き？」 「大好きだよ。ホントにごめん」 進一は床に頭をこすりつけた。 そうだ。 自分のホントの気持ちを素直に伝えればいいんだ。 いまでも進一はあゆのことが好きなんだ。 真由美にチンコを踏まれたのは、絶望の中の、それは一筋の光明で、人間として真由美は好きだし、女性としても魅力的だが、愛しているわけではない。 あゆのことは。愛しているんだ。 だから。 進一はあゆに告白しようと思った。 「あゆちゃん……」進一は意を決した。 真由美があゆたちに進一が戻るかもしれない、と言ったのなら、話はかなり実現する可能性が高いのだろう。 「彼氏とはどうなの？」 まず聞かなければならないのはそのことだ。 彼氏がいるのに口説くのははばかられた。 「そんなの関係ない！」 あゆが怒った。 「会社に戻れるかもしれないって話は、進一の口から聞きたかったのに」 進一は黙って頭を下げた。 「ねえ、進一、もう土下座なんかしないで」 あゆが言った。 「えっ？」 「進一はもう奴隷じゃない。 恋人になって欲しいから」 思わぬあゆの言葉に、進一はどうしたらよいのかわからなかった。 「こっちに座って」 あゆは進一にベッドに座るよう言った。 「これからは土下座はなし。靴も舐めなくていいよ」 「……」 「普通の恋人になって」 「……」 彼氏のことは少し気にはなっていた。 それに会社の件もまだ決まったわけではない。 例の「枕営業」ですら、まだうまくいっていないし。 「普通の恋人だって、彼女のことが好きで好きでたまらなければ土下座くらいはするよ」 「でも靴は舐めないで」 「なんで」 「靴舐めた口とキスしたくないから」 「わかった……、わかりました」 「敬語じゃなくて、ため口でいいよ」 「今まで敬語だったのに変じゃない？」 「ため口がいいの」 「わかった」 なんか変な雰囲気だったが。 「でも威張ったら嫌だよ」 と、あゆが言った。 「あはははは」 進一は笑った。 今まで何度も、カラオケボックスで靴舐めをしてきた相手が、もしかしたら恋人になるかもしれない。 ホントに「人間万事塞翁が馬だ」 あゆが体を寄せてきた。 あっ。 進一は思わず勃起してしまった。 「うふふふふ」 あゆが笑った。 「ごめん」 進一が言った。 「なんで謝るの？」 「いや、その、欲望むき出しで」 「あゆに欲望を感じてくれたんだ。嬉しいよ。でも」 でもなんだ？ 「今日は出来ない。あと少しだけ待って」 やはり。 彼氏とはまだちゃんと別れてはいないんだろうか。 それとも単に気持ちの整理がつかないだけか。 いいよ。 いつまでも待つよ。 進一だって、欲望のままに、あゆと関係を持つ勇気はなかった。 ホントにあゆと付き合うには、越えなければならないハードルがいくつもあった。 進一はベッドからおりて、ふたたび床に正座した。 あゆは「なんで？」という顔をした。 「僕のほうこそ。あゆちゃんの恋人になるには、まだ早いんだ」 「えっ？」 「まだ会社のことも、正式に決まったわけじゃない」 「だけど」 「正式に決まったら、本気であゆちゃんに告白するから」 進一はふたたびあゆの前に土下座した。 今日のところは、あゆの奴隷でいい。 そして、数日後には恋人に昇格して。 そして。 目の前に、あゆの綺麗な足が伸びていた。 進一は思わず生唾を飲み込んだ。

★★

「彼が？」 秋野紅葉が真由美に聞いた。 高級ホテルのラウンジで。 紅葉が一度、進一に会いたいと言う。 ただ二人がセックスするところを見るだけなのに。 「変な役を頼んで、ごめんね」 紅葉は小太りで背の低いおっさんだった。 有名ファッションデザイナーっぽくない。 服も自身のブランドでなく、和服姿だ。 それも唐ざんという、あまり高くない着物だ。 「江戸時代の人はさ、貧乏人でも着物を着ていたんだよ。 絹の高級な着物なんて、武士とか豪商が着るものだよ。 それを現代人はありがたがって着ている。 僕は職人だからね、唐ざんが似合うんだ」 なんだか、よくわからない。 このおっさんが、日本を代表するファッションデザイナーで、他人に見られないと興奮しない変態でもあるのか。 「僕のことは伝えてあるの？」 紅葉が真由美に聞いた。 「だいたいは」 真由美が答えた。 「だいたいじゃ駄目だよ」 紅葉が言った。 「当日、現場で話が違うって言われても、困るよ」 な、なんなんだ。 ただ、紅葉と真由美のセックスを見るだけじゃないのか。 「わかりました。細かに、ちゃんと説明します」 「頼むよ」 「こちらもよろしくお願いします」 真由美が頭を下げた。 「こちらも」とはライセンス契約のことだろうか。 枕営業で、頭も下げて、でも紅葉とライセンス契約を結ぶことで、真由美の会社は立ち行くことができる。 紅葉が帰ったあと、真由美は進一をバーに誘った。 「彼には母親の違う姉さんがいてね」 彼とは紅葉のことだ。 「子供の頃、姉さんたちに虐待されていたらしい」 紅葉の父親が女好きで、姉たちの母親を追い出して、紅葉の母親と結婚し、紅葉が生まれた。 追い出された母親の娘たちが紅葉を憎むのはわかる。 でもそこで、紅葉は姉たちに取り入る術を覚えた。 姉たちの考え方や趣向をいち早く読み取り、気に入られるようにした。 姉たちからの暴力は少なくなったが、以後、姉たちの奴隷として生きることになったという。 いつも姉たちの顔色を見て行動する。 その習慣が、女たちの動向を読む、ファッションデザイナーとしての紅葉の力量を開花させたのかもしれない。 姉たちの虐待は紅葉が中学を卒業するまで続いた。 高校に入ると、紅葉は女たちにモテまくった。 彼はすっかり女たちのかゆいところに手が届く行動の出来る男になっていた。 だが背も低く、勉強もスポーツもたいして出来ない紅葉が女にモテることで、今度は男子たちの反感を買い、いじめの対象にもなったらしい。 「男たちから何をされたかは知らないけれど」 「たぶん、だいたいわかる」 「そうなの？」 「僕はモテなかったから、そんないじめに遭わなかったけれど、クラスでいたんだ。 ちょっとイケメンで。 バレンタインなんかにチョコレートたくさんもらっていた奴がね」 「どうしたの？」 「女子の前でパンツ脱がされていた」 「あはははは」 真由美は笑った。 脱がされた男子は笑い事じゃないだろう。 紅葉はどうだったんだろうか。 姉たちからの虐待で、姉たちには性的な虐待も受けていて、いまさら女にチンコ見られても、だから、なんだという感じじゃないのか。 いや、姉と他人の女は別だろう。 それに、好きな女の子の前で、無理矢理パンツ脱がされたりしたら。 紅葉が他人に見られないと興奮しない、セックスに男子の目線がいるとは、そういうことか。 「ねえ、ただ見るだけじゃないの？」 進一が聞いた。 「私もよくわからない」 真由美が言った。 「真由美さんと紅葉さんはどういう？」 「それは内緒」 と言って真由美は遠くを見た。・ 内緒って何をいまさら。 「パンツ脱がされた彼って、今、どうしてるの？」 「さぁ」 進一も知らなかった。 おそらく普通に暮らしているんだろうが、やはり何か性的なトラウマを抱えているんじゃないか。 進一は思った。

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