塞翁が馬

作・たぬべえ

１

その上司は多分酔っていて自分でも何を言っているのかわからなくなっていたのだろう。 やたらと諺を連発していた。 「いいか、お前、人間万事馬っていうだろう」 はぁ？　なんで人間が万事馬なんだよ？　 それを言うなら、「人間万事塞翁が馬」だろう。 馬が逃げてしまい悲しんでいたら、翌年、名馬をたくさん連れて戻って来た。 だから、悲しいことがあっても、もしかしたら、いいことに繋がるかもしれない、というようなことじゃなかったか。 「そうだ。よくわかっているじゃないか。 つまり、人間万事馬なんだ」 だから。 「塞翁が」が抜けてますよ。 それが中山進一に対しての、上司のリストラの勧告だった。 「うちの会社では駄目だった。 だが、お前もまだ三十歳だ。 他の仕事に就いて成功出来る可能性がある。 つまり人間万事馬だ」 会社を辞めても3ヶ月くらいは食い繋ぐ貯金はあった。 だが次の仕事が決まらぬまま、3ヶ月はすぐ過ぎた。 やむなくコンビニでアルバイトをはじめた。 失業しても、家賃や国民年金は払わねばならない。 時給950円でも働きたい人は大勢いる。 なかなかシフトに入れてもらえず、一日4時間くらいしか働けない。 暇な時間に仕事を探したが、思うようにはいかない。 ぎりぎりの生活が半年ほど続き、もう駄目だ、と思った。 そんな時、登録していた人材派遣会社から電話があった。 簡単なアシスタント業務だという。 時給は1200円だが、とりあえず1年間フルタイムで働ける。 うまくすれば正社員登用もあるかもしれないという話だった。

★

小さなアパレルの商社だった。 社員数は40人程度。 進一が配属されたのは、企画開発部で、女性社員５人が働いていた。 「女のアシスタントなんて嫌でしょうけど」 40歳だという主任の間真由美が言った。 「そんなことはありません。 一生懸命やらせていただきます」 「男性視線のアイディアも欲しいから企画会議には参加して、どんどん意見を言ってね」 33歳の梅田松子は進一に好意的だった。 二人ともアパレル社員だけあって、お洒落で、年齢よりかなり若く見えた。 進一より年上はその二人で、あとの三人は年下で、彼女たちもすこぶる美人だった。 デザイナーの大塩初美は28歳でボーイッシュ系、 営業担当の南小百合24歳はブランド好きのようだ。 一番若いのは新卒の22歳、神林あゆ。 この五人に囲まれての日々がはじまった。 まさに「人間万事塞翁が馬」だな。 進一は思った。 進一の一日は朝の掃除からはじまった。 就業時間30分前に来て掃除。 お茶出し。 業務は、資料調べや、雑誌の切り抜き、企画書などの清書、その他、上司である女性たちの雑用全般。 夢のような一年が過ぎた。 真由美と、人事課長に呼ばれた。 「私としては中山君に残って欲しいんだけど」 真由美は言った。 「経費削減でね。 今期で終了ということで」 50代の男性課長は冷たく言った。 「まぁ、人間万事塞翁が馬というじゃないか」 この人は知ってたのね。諺。

★★

契約終了まで、あと一週間となった。 雨の日だった。 営業から帰った小百合のブーツが泥だらけだった。 「磨いておきますよ」 進一は言った。 「そこまではやらせられないよ」 小百合が言った。 「いいえ、いままでよくしていただいたお礼です」 「いいなぁ。 私も中山君にブーツ磨いて欲しい」 あゆが言った。 「駄目よ。 南はこのあとも営業行くから磨いてもらってるのよ」 松子が言った。 「いいですよ。 あゆちゃんのブーツも磨きます。 松子さんもどうぞ」 こうして最後の一週間は女たちの靴磨きも仕事に加わった。 最後の日になった。 真由美は会議でいなかった、松子、初美、小百合、あゆがいた。 「中山君、最後だからさ。 私たちの履いたままのブーツ磨いてよ」 松子が言った。 「私は今日はピンヒールね。 中山君が望むなら踏んであげてもいいよ」 小百合が言った。 「私は踏みたいな」 初美が言った。 「皆、中山君と別れたくないんだよ」 松子が言った。 「ありがとうございます。 ホントにありがとう」 進一は心から嬉しかった。 美女５人にこんなによくしてもらったんだ。

★★★

お別れに松子たちの靴を磨きながら、進一はこの一年のことを思い巡らせていた。 主任の間真由美、副主任の梅田松子は年上だったが、他の三人、デザイナーの大塩初美、営業担当の南小百合、新人の神林あゆは進一よりも年下だった。 はじめは真由美と松子は「中山君」、他の三人は「中山さん」と呼んでいた。 ある日、 「アシスタントをさん付けも変だから、皆も中山君って呼びなさい」 と真由美が言った。 「中山君」 一番年下のあゆがまず呼んだ。 「わーっ、男性を君付けで呼ぶなんて、なんか学生時代みたい」 あゆははしゃいでいた。 「中山君、営業行くから。 資料もって付いて来て」 「はい」 小百合のお供で取引先に行く。 正直、職場の中で、お茶を入れたり掃除をしたり、女たちに雑用を命じられるのは苦ではなかったが、営業先に荷物持ちで行くのはちょっと辛かった。 取引先の担当は男性のことが多い。 多分、進一と同年代だ。 そいつらと対等に渡り合っている小百合の、自分はアシスタントでしかない。 決裁権のある仕事は何も任せられず、言われた通りの雑用や力仕事をただやるだけ。 「お前はそれでも男か。 女に顎で使われて」 誰もそんなことは言っていない。 言っていないが、そう思われているのではと感じられるのが苦痛ではあった。 「お茶飲んでいこうか」 帰路、小百合が声を掛けた。 「仕事途中ですよ。 早く戻らなくていいんですか」 「三○分だけよ」。 小百合と喫茶店に寄る。 「ケーキ食べて。 あっ、男の子は甘いもの苦手？」 「苦手じゃないです」 「よかった。私も食べるから」。 小百合はブランド服で固めた隙のない女だったが、進一には気を遣っていた。 「男の子を顎で使うのは趣味じゃないのよ。 でも仕事だから。 我慢してね」 小百合は言った。 「とんでもないですよ」 優しく言われて、卑屈に思っていた自分が情けなくなった。 リストラになって仕事がなく、食うや食わずで家賃も払えない寸前だったことを思えば、今はまさに天国じゃないか。 「これからも、怒ったりすることがあるかもしれないけれど、あくまでも仕事上のことで、私は決して男性を下にみたりする女じゃないことはわかってね」

★★★★

「今日、残業頼めるかなぁ」 デザイナーの初美が声を掛けた。 「はい。 わかりました」 「じゃ、六時にスタジオに来て」 社内に商品の撮影が出来る簡単なスタジオがあった。 「じゃ、言われた通りに並べて頂戴」 初美の命令通りに商品を並べては片付ける。 「それ違う」 「すみません」 「もう、使えないわね！」 突然、初美が切れた。 進一は言われた商品を並べたのだ。 なのに「違う」と言い、 「あんたがのろまだから、仕事が進まないのよ。 もっと使えるアシスタントが欲しいのに、なんでお前みたいなドジ男なのよ」 進一は言葉がなかった。 「謝れ」 初美が言った。 「すみません」 とりあえず進一は謝った。 「心から謝ってない」 自分は言われた通りのことをやったのに。 バシッ。 初美のビンタが飛んだ。 なんで殴られなければならないんだ。 進一は怒りを感じた。 「主任や南がどう思っているかは知らないけど、私はあなたが嫌いよ。 使えなくて前の会社クビになったんでしょう。 無能だから人から言われたことしか出来ない。 今だって、女に顎で使われてヘラヘラして。 それでも男なの！」 「……」 「新人の神林よりも下なのよ。 ねえ、自分が下だっていう自覚もないでしょう」 「あります」 進一は応えた。 「あるの？」 「はい」 「だったら」 初美は大きく息を吸って、それから床を指差した。 「土下座しろ」 「えっ？」 「土下座して謝れ」。 今までも商品を並べるために床に膝をついて仕事をしていたが、土下座となると話は別だ。そこまでプライドを捨ててまで仕事をしなければいけないのか。 いろんなことが頭をよぎった。 やはり、仕事は失いたくない。 真由美や松子や小百合には優しくしてもらっているんだ。 頑張れば社員に登用してもらえるかもしれない。 ここが我慢の時だろう。 進一は改めて初美の前に跪き、両手をついて頭を下げた。 「どうもすみませんでした」 「股の下をくぐれ」 すると初美は大きく股を開いて言った。 もうなんでもしよう。 ここまでやったんだ。 進一は四つ這いで、初美の股の下をくぐった。 初美は「ふふふ」と笑った。 「まぁ、今日のところは許してやるよ」 初美は言った。 そのあと一時間で撮影は終わった。 そそくさと帰ろうとしたら、 「ちょっと飲んでいかない」 と初美が声を掛けて来た。 股をくぐらされた女と酒なんか飲みたくなかったが、また意地悪をされても嫌だから従った。 バーに連れて行かれた。 「股はくぐらないと思った」 初美が言った。 「すみません」 「早く仕事覚えて。社員になれるといいね」 初美は言った。 さっきのはなんだったんだろう。 「ねえ、最後だから。 股の下くぐってよ」 初美のハイヒールを磨いている時に、初美がポツリと言った。 「何それ、そんなこと、してたわけ」 松子が怒ったように言った。 「一回だけよ」 と初美が笑った。

２⇒

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