目覚め
作・たぬべえ
１
古橋美奈子は酔っていた。

会社の同僚のＯＬ三人組で、いつものビアホールで軽く一杯だけ飲んで帰ろうということになった。
そこへサラリーマン風の男三人組が声を掛けて来た。

声を掛けて来たのは、やたらと調子のいい男だった。
その後に、ちょっとイケメンがいた。
もう一人は二人の上司風の中年男だった。

調子のいい男に乗せられた感じで六人で飲んだ。
ちょっと一杯のつもりが四五杯も飲んだ頃、二人のＯＬと調子のいい男とイケメンがいなくなり、ビアホールの席には美奈子と中年男だけだった。

酔ってはいるが冷静さを保って、美奈子は
「そろそろ帰らないと」と言った。

「えーっ、まだ９時だよ」中年は言った。
「もう少しいいでしょう。
あと一時間くらいは」

新しいビールが運ばれて来た。
まぁ、もう一杯くらいは飲んでもいいかな。
美奈子は思った。

いつの間にかビールが別の酒に替わり、それを三杯飲んだあたりから記憶が曖昧になった。
ＳかＭか、みたいな話になった。

若い奴らがよくやる話。
Ｓだからどうってこともない。
だが、なんかどうってことがある展開になっていた。

えーっ！！
いつの間にか、美奈子はホテルの一室にいて。
中年のおじさんがパンツ一丁で土下座していた。

確か、美奈子が
「私はＳよ」
と言ったら、おじさんが
「僕はＭなんだ。
気が合うね」
と言ったんだ。

気が合うからって、どうしておじさんとホテルなんかに来ちゃったのよ。

「今日はね、何も道具を持っていないんだ」
おじさんが言った。
はぁ、道具ですか……。
って、何をすればいいのよ。

っていうか、私はおじさんとＳＭプレイをしなきゃいけないわけ？　
美奈子はあわてた。

「でね、さっき、これをコンビニで買ってきたんだけど」
おじさんは仏壇で使う蝋燭を、うやうやしく差し出した。
「美奈子女王様、どうか私をこの蝋燭で責めてください」
おじさんは美奈子の足元に深々と頭を下げた。

「うっうっうっ」
そのあたりから美奈子は何故か気持ちが悪くなった。
立っているのもやっとだった。

「うっうっうっ……、ごめんなさい」
美奈子はそのまま激しく嘔吐した。
気が付くと、おじさんは土下座したまま、ゲロまみれになっていた。

「ごめんなさい」
美奈子はあわてて、土下座しているおじさんの前に土下座した。

「いいんだよ。
いや、こ、こういうプレイもさ、僕は嫌いじゃない。
むしろ好きだよ」
おじさんのやせ我慢が伝わって来た。

そのあとどうしたのか、美奈子の記憶がとぎれていた。
気が付くとタクシーに乗っていて、自分の家の近くを走っていた。
メーターを見て驚いた。
１５０００円……。

げっ、会社の近くのビアホールから家までタクシーに乗ってしまったのか！！

やばいぞ。
そんな金持ってない……。
と思ったら、手にポチ袋を握っていた。

何これ？　
中を見たら、一万円札が二枚入っていた。
あのおじさんがくれた？　
なんて粋なマゾヒストなんだ！

家の近くでタクシーを降り、帰ってすぐバタンキューとベッドに倒れた。
今日は一体なんだったんだ。

初対面のおじさんとホテルに行ってしまった。
イケメンか、まだお調子ものならともかく、よりによっておじさんと。

そしたらおじさんがマゾで、そのおじさんの頭からゲロを吐き掛けてしまった。
おじさんが裸でよかった。
いや、そういう問題じゃないんだ。

友達二人はどうしたんだろうか。
やはり他の男二人とホテルに行ってＳＭプレイ……、いや、ＳＭプレイはしないよ。
なんか私はどうかしていたんだ。

改めてポチ袋を見たら、携帯の番号が書かれた紙が入っていた。
あのおじさんだ。

翌朝、携帯に電話してみた。
マゾヒストとはいえ、頭からゲロかけたお詫びはせねば。

そういうプレイじゃなく、ゲロをかけた非礼は詫びるのが人間の務めだ。
というかタクシー代のお礼もしないと。

電話したら、
「美奈子女王様ですね。
お電話ありがとうございます」
夕べのおじさんのやたら爽やかな声が聞こえて来た。
マゾのおじさんも朝は爽やかなんだ。

「私にもう一度会いたかったら、いまそこで土下座して、その姿を写メで送れ！」
タクシー代のせめてものお礼に、美奈子は女王様っぽく言ってみた。

しばらくしてメールが来た。
えーっ！！
駅のホームで土下座しているおじさんの写メだった。
これはもう会うしかあるまい。

夕方、昨日のビアホールで会った。
今日は飲まないようにしよう。
一杯でやめて、ホテルに行った。
おじさんがタクシーを拾って、ＳＭの部屋のあるホテルへ行った。

ヨーロッパの拷問部屋を模した部屋だ。
昼のうちにおじさんが予約していたらしい。

しかもおじさんは紙袋を美奈子に渡した。
「着ていただけたら嬉しいんだけど」
「えっ？」

紙袋を開けたら、ボンテージのドレスが入っていた。
バスルームで着替えたら、げっ、かなり恥ずかしい。
おっぱい丸出しの衣装だった。

でもまぁ、いいか。
と美奈子は思った。

拷問部屋に戻ると、赤々と蝋燭が点って、おじさんが今日もパンツ一丁で土下座していた。
おじさんの背中に蝋燭を垂らした。

「あー、いい」。
おじさんがもだえた。
なんか、酒の酔いとは別な意味で気持ち悪かった。

でも、マゾのおじさんと知り合って、背中に蝋燭を垂らす、そんな経験は普通じゃ出来ない。
これも一期一会というんだろうか。
なんか癖になりそうな気もちょっとしていた。

Ｓっていうのも悪くはないか。
美奈子はおっぱい丸出しのボンテージ姿を鏡に映しながら思った。

しかし、その後、おじさんからは連絡はなかった。
おじさんの携帯に電話をしてみたが、携帯は解約されていた。

「何よ、私を目覚めさせて。
なんなの」
美奈子のもとには、オッパイ丸出しのボンテージドレスと、いたたまれない気持ちだけが残った。

こんな気持ちは誰にも言えない。
「誰か、私の前に土下座してくれないか」
そんな妄想で頭がイッパイになった。

ささいなことで、彼氏というわけではない。
ボーイフレンドの健夫をビンタしてみた。

身体の中からゾクゾクする何かが湧き上がるのを感じた。
美奈子の中で確実にＳの素養が目覚めた。
次の瞬間、頬に鋭い痛みを感じた。

「何するんだ」
健夫から思いっきりビンタされた。
殴ったのだから、当然の報いとして殴り返された。
女を殴るなんて最低の男だと思った。

次の日、頬の腫れは引かなかった。
会社を休んだ。
アパートに一日いたら、ますます悶々としていたたまれなくなった。

夕方、試しにボンテージドレスを着てみた。
鏡に写したら、かなり恥ずかしかったが、でも似合っている気がした。

これを着て健夫をビンタしたら、殴り返されることはなかったろうと思った。
これさえ着れば、きっと男はひれ伏すはずだと。
呼び鈴が鳴った。
２⇒



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