ナターシャ
作・たぬべえ
第弐部
ナターシャはその場で司令部に行き休暇届を出すと、
ハバロフスク行きのアイロフロートに飛び乗った。
信じられない。
ドビッチが戦死？　
戦死ってどういうこと？　
数日前に士官学校に合格したというメールが来たばかりではないか。

父の話では、密猟者の討伐に行った時に戦闘になり撃たれたのだという。

軍が出動してきて、それに反撃する密猟者なんてまずいない。
投降するか逃げるかだ。
まれに自棄になって撃ってくる奴もいないわけではない。
だが、そんな奴らの弾丸が当たるわけはないのだ。
それに兵士は防弾チョッキを着用している。
なんで、そんな、密猟者に撃たれて死んだ？そんなことがあるものか。

ハバロフスクから列車に乗り、駐屯地近くの駅で降りると、
連絡を受けていた昔なじみのブルガーが迎えに来ていた。
もう一人、将校が出迎えていた。

「私は副官のケルン少尉です。
わざわざロセンスキー中尉殿がお越しになられるとは。
ドビッチ軍曹の棺にブーツでも備えに見えたのですか」

何を言うんだ、こいつは、とナターシャは思った。
「隊長がお待ちです。車にどうぞ」
ブルガーに言われ、ナターシャは車に乗った。

葬儀は基地で行われた。
ドビッチは戦死のため、二階級昇進で、ドビッチ少尉として葬られた。
ドビッチの家族と退官して近くの街に住んでいるコロゾフ元中尉が呼ばれ、
部隊の全員が参列し、ナグルスキー大尉が弔辞を述べた。
ドビッチがいかに勇敢な兵士だったかを語った。

棺に眠るドビッチを見たが、ナターシャは泣かなかった。
上官の涙などドビッチは見たくないに違いないと思った。

「ドビッチは優秀でしたよ」
ナグルスキー大尉が言った。
「士官学校受験のために、半年間、閑職に就けて勉強出来るようしました。
おかげで試験には合格しましたが、死んでしまうなんて、惜しいことです」

ナターシャはおかしいと思った。
軍の任務を第一に考えるドビッチが、受験のために閑職に退くのか？
彼なら軍の任務をこなしながらも勉強は出来たはず。
いや、何が何でも試験に受かって、ナターシャとの結婚を望んでいたのだろうか。

ナグルスキーの魂胆はナターシャには手にとるようにわかった。
ドビッチを優遇していたことで、ナターシャの父、ロセンスキー大佐にコネクションを作りたいだけだ。

ドビッチの葬儀の翌日、ナターシャがモスクワから送った赤冨士のレプリカが届いた。
ナターシャはドビッチの母から、ドビッチが以前持っていた赤冨士のレプリカを形見として譲り受けた。

モスクワに帰ったナターシャを待っていたのは、司令部人事部長のナレンコ准将からの呼び出しだった。

「ロセンスキー中尉、君はかつて上司を殴ったことがあるね」
「はい」
「何故だね」
「広報部の上司だったイワン少佐が部下の女性アシスタントにセクハラをしている現場に遭遇したからです」
「なるほど。だが、一部でこんな噂もあるのだよ。
君がイワン少佐と関係を持っていて、イワン少佐が女性アシスタントにちょっかいを出したのでついボカリ。
つまりは痴話げんかであったと」

「何をバカなことをおっしゃられるのですか！」
ナターシャは声をあらげた。流石に怒りをコントロール出来なかった。

「すまんすまん。あくまでも噂だ。
時に、君は休暇をとってシベリアへ行っていたそうだが、どんな用事があったのかね」
「はい。かつての部下が戦死し、その葬儀に参列して来ました」
「部下とは、ドビッチ少尉のことかね」
「はい」
「これも噂なんだがね。かつてドビッチ少尉は君の従者だった。
その時に、君とドビッチが特別な関係があったと……」

人事部はなんでそんなことを知っているんだ。
いや、なんでそんなことを、わざわざナターシャを呼び出して聞くんだろう。

「顔色が変わったところをみると、まんざらただの噂話ではないようだね」
「部長、確かにドビッチ少尉とは愛し合っていました。
でも、ちゃんと将来を誓い合っていました。
彼が少尉に任官したら結婚するつもりでした」

「そのことはお父上もご存じか」
「父にはまだ報告していません。
というか、父は関係ありません」

「ロセンスキー中尉、軍というところは、皆、国に忠誠を尽くしたい気持ちは同じだが、
そのために出世をしたいものだ。
コネを利用したり、時には先を行く者の足を引っ張ることもある。
だから、軍人である以上、スキャンダルは厳禁で、
身綺麗にしておかなければならないんだ。
君のスキャンダルがロセンスキー大佐の足を引っ張ることもある」

「でも、私たちはホントに愛し合っていたんです。
やましいことは何もありません」
「戦場では、援護するふりをして、味方を後から撃つ奴もいるということだよ」
「……」

「わしはロセンスキー大佐とは戦場で一緒だったこともあるんだ。
今回のことは根も葉もない噂ということにしておこう」

「戦場では、援護するふりをして、味方を後から撃つ奴もいるということだよ」。
たとえ話で言ったナレンコ准将の言葉が気になっていた。
ナグルスキー大尉とケルン少尉、あの二人は何かを隠している。

まず反撃してこないはずの密猟者の応戦、
防弾チョッキを着ているはずのドビッチの被弾、
その二つはまったくないことではない。
閑職に退いていたドビッチが密猟者討伐に出撃したのは何故か。
第一、20人しかいない守備隊で閑職とはなんだ？

ナターシャはその足でアイロフロートに飛び乗った。
誰にも告げず、駐屯地の近くの街のホテルに泊まり、
兵たちが休暇の時に寄ることの多い居酒屋で待った。

その日の夕方、旧知のホッチス上等兵が現われた。
「ロセンスキー中尉、やはり見えられましたね」
「ナレンコ准将に何か言ったのはあなた？」
「人事部に匿名で投書は送りました」
「そうだったの。で、どういうことなの？」
「ドビッチ軍曹を後から撃ったのはケルン少尉で、
命じたのはナグルスキー大尉です」

ナグルスキーとケルンはドビッチをモスクワとのコネにしようと、最初は彼を優遇した。
だが真面目なドビッチはそれをはねつけた。
しかも二人は密猟者から賄賂をとっていた。
それをドビッチに知られて殺害したと、ホッチスは言った。

「中尉、どこへ？」
「決まってるわ。ナグルスキーを問い詰める」
「無理ですよ。証拠はない。しらを切るだけです。
実はケルン少尉が休暇で街に来ています。奴は街に愛人がいるんです。
ケルンを締め上げて吐かせましょう」

ホッチスはドビッチとは同じ村の出身だという。
ナターシャには強い味方が出来た。

二人がケルンの愛人の家に行くと、ケルンは裸でベッドに縛られていた。
「誰かが先にケルンを締め上げたのかしら」
「違いますよ。ケルン少尉の趣味です」

見ると、愛人と思われる女が、洗濯ばさみをケルンの乳首にはさんでいた。
あーっ、あれは私とドビッチはやってないわ。
男と女にはいろんな楽しみ方があるものだ。
ナターシャは感心した。
いや、そんな場合ではない！

ホッチス上等兵が女を縛り上げているうちに、ナターシャはケルンのそばへ行った。
「ホントのことを言いなさい。ドビッチを殺したのあなた？」
「知らない。俺は何も知らないよーッ」
ナターシャは拳銃をケルンの頬に押し付けてもう一度聞いた。
「ドビッチを殺したのはあなた？」

するとケルンは恍惚の表情を浮かべて言った。
「これはなんのプレイだ？」

はぁ？　
何をほざいているのだ、この男は。
ナターシャはこのまま引鉄を引こうかと思った。

だが考えた。
拳銃をつきつけられたのに、たわけたことを言っているのは、ホントに何も知らなくて、今、この状況をプレイだと勘違いしているのではなかろうかと。
ナターシャは拳銃を一発壁に撃った。
「本気よ。さぁ、答えなさい！」

どうやら、ケルンにもこの事態がプレイでないことがわかったようだ。
「知らないよ。
ホントになんのことか、まったくわからない」
ケルンは泣き出した。
ケルンは事件には無関係のようだ。

「どうしました」
銃声を聞いて、ホッチス上等兵がやって来た。
「あなたの勘違いのようね。ケルン少尉は無関係のようだわ」
「そんな……」
ホッチスは驚いたようだった。

ケルンが無関係だとすると、ナグルスキーが黒幕というのも当てにはならない。
ふりだしに戻って事件を洗わねばならない。

「とにかく状況を知りたいわ。
ドビッチが死んだ日のことを詳しく教えてほしい」
ナターシャはホッチス上等兵を連れて泊まっているホテルへ急いだ。
裏通りを抜けて行こうとしたところへ、ならず者が道を塞いだ。

「姉ちゃん、俺らと遊ばないか」
ならず者は三人組だった。
「そんな暇はない」
ナターシャがすりぬけようとすると、一人が腕を掴み、二人がナイフを出した。
「黙って言うことをききな。カワイイ顔に傷が……」

言葉が終わらぬうちに、手を掴んだ男が宙を舞っていた。
ナイフの男の一人はナターシャの蹴りで倒れた。
最後の一人は驚いて逃げ出した。
ナターシャは投げ飛ばした男を組み伏せて、
「誰に頼まれたの」と言った。

「頼んだのは私です」
答えたのはホッチスだった。

ホッチスの手には拳銃が握られて、ナターシャの頭に突きつけた。
「どういうこと？」
「ドビッチ軍曹と同じです。
あなたは余計なことを嗅ぎまわり過ぎた」

「つまり密猟者から賄賂をもらっていたのは、あなただったの？　
それにドビッチは気が付いて……」

ナターシャは考えた。
上等兵ではせいぜい巡回の予定を教えるくらいのことしか出来ない。
ホッチスの後に誰か黒幕がいるはず。
やはり黒幕はナグルスキー大尉なのか。

「あんたが嗅ぎまわってくれたから、うまくナグルスキー大尉とケルン少尉に罪を被せようとしたけど、あんたはちょっとばかり頭がよ過ぎたね。
だが、その頭がいいことが命取りなんだよ、あの世でまたドビッチにブーツでも磨いてもらうんだな」

ホッチスが引鉄を引こうとした瞬間、ナターシャは後手にホッチスの服を掴むと、そのまま一本背負いの体制に運んだ。
にわか仕込みの柔道の技だ。
一月前から習いはじめていた。
やったことなんて勿論ないが、師範が模範演技でやるのは目に焼きついていた。

ホッチスは宙を舞い地面に落下した。
銃を蹴りとばし、ホッチスの腕を足で締めた。
これも見よう見真似だった。

「黒幕の名前を言いなさい。でないと、腕を折るわよ」

ズドン。
銃声がした。

えっ？
なんと、ホッチスの頭が撃ち抜かれていた。

ズドン。
二発目の銃声はナターシャの右腕をかすめた。
ナターシャはもの陰に隠れた。

「さっきの女がまだいるぞ」
銃声の逆方向から男たちの声がした。
ならず者が大勢助っ人を頼んで来たらしい。

銃で狙われ、逃げようと思った方向にはならず者たち。
かすめたとは言え右腕を被弾していては普通に力は出せない。
絶体絶命である。

ドビッチ、助けてお願い。私に力を貸して。
ふと、ドビッチと最初にジャンケンをして遊んだことを思い出した。
あの時、ジャンケンに負けたドビッチは罰ゲームで極寒の中、全裸で表へ出て行った。

わかったわ。ドビッチ。
ナターシャはコートを脱ぐと放り投げた。

ズドン、ズドン、ズドン。
コートに銃弾が浴びせられた。

次にジャケットを脱いで投げた。
ズドン、ズトン、ズドン。

次にブラウス。ズドン、ズドン……。
やったわ。
ここで弾切れのようね。
下は脱がずに棲んだわ。

ナターシャは上半身はブラジャーだけの姿でならず者たちの前に飛び出した。
流石にならず者たちはひるんだ。
というか全員目がハートマークになっていた。
男たちの動きが止まった。

「神風吹け」
ナターシャは日本語で叫び、ならず者の中で一番強そうな男に鉄拳を食らわせ倒すと、闇の中へ走り去った。

ナターシャは公安の取調べを受けた。
ケルン少尉への暴行と、ホッチス上等兵殺人事件の参考人としてだ。
ケルン少尉暴行の容疑はすぐに晴れた。
ケルンを縛ったのはケルンの彼女だったからだ。

ホッチスの件は密猟者たちの内輪もめということで解決しそうだ。
ナターシャは黒幕の存在を訴えたが、公安は取り上げなかった。
軍のことには関与出来ないのだろう。
モスクワからナターシャにもすぐに戻るよう命令が来た。
だが、このままではどうしても帰ることは出来ない。

ホテルに戻った。
ベッドに横になると、考えることはドビッチのことばかりで、自然と涙が零れた。

最後の夜のことが思い出される。
ドビッチは黙々とナターシャの足を舐め続けていた。
足首や太股に今でもドビッチの舌の感触が蘇る、

だが、泣いている時間はない。
あと一日。
一日くらいならモスクワは許してくれるだろう。
２４時間以内で黒幕をあぶり出せばいいんだ。

ナターシャは公安の近くのティールームにいた。
ドメオ捜査官がすぐにやって来た。
ここが彼のさぼり、いや、息抜きの空間のようだ。

「どうしも黒幕を突き止めたい」
ナターシャは詰め寄った。

「知らないよ。黒幕なんていない。軍のことには関与出来ない」
「なら、密猟者のボスに会いたい」
「無理無理。俺は命が惜しいんだ。
あと5年で定年なんだよ。
そしたら年金で暢気に暮らすんだ」

「年金で暢気に暮らせるの？」
「女房が利口なんだよ。
外資の投資信託の個人年金にも入ってる。日本や韓国。
日本は円高だし韓国は急成長しているから。
いい額の年金がもらえるんだよ」

年金だけでは、軍も公安も、決して暢気には暮らせない。
退官したゴルゾフ中尉のことを思い出した。

「オルカという毛皮商が昔密猟者と関係があった。
この情報だけで勘弁してくれ」
ドメオ捜査官はこれ以上やる気はないと言いたげだった。

「勘弁してよ。俺はもう密猟者とは関係ないんだ」
毛皮商は言った。

「昔はどうだったの？　
軍の中で密猟者に情報を流していた人物がいたはずよ」

「だいたい決まっているだろう。下士官で優秀な奴がやるんだ。
それで上司に賄賂の一部を渡す。
軍なんてえのは全部グルさ」
「あなたが密猟者と関係があったのはいつのこと？」
「五年くらい前かな」

まさか。
守備隊で優秀な下士官と言えば、ドビッチではないか。
そして、ドビッチから賄賂の一部を受け取り、それを容認していたのはゴルゾフ中尉ということになる。

ゴルゾフのマンションは街中にある瀟洒な建物だ。
夕方。
コルゾフが出て来た。
立派なスーツに身を包んでいる。

「中尉、お久しぶりです」
ナターシャが声を掛けた。
「どうしたんだ、ロセンスキー中尉。
モスクワに帰ったんじゃなかったのか」
「飛行機のチケットが取れなかったので、一日だけここに残ることにしました」
「そうだったのかい」

コルゾフの嘘がわかった。
ナターシャが二度目に来たことはコルゾフは知らない。

ドビッチの葬式からずっとモスクワに帰っていないなら、
「飛行機の……」という言葉に「そうだったのかい」という返事はしないはず。
つまり、ナターシャが昨日来て、ホッチスの殺害現場にいて公安に調べられ、モスクワから帰還命令を受けている一連のことを知っているのだ。

つまりコルゾフは、ホッチスはじめ誰かにナターシャを見晴らせているのだ。

「すまんが、私はこれから市議会議員と会食なんだ」
「ですが私も重要なお話があるんです」
「もうこのへんで退いたらどうだ。そのほうが自分のためだぞ」
コルゾフが鋭い目を向けた。

退くわけにはいかない。
たとえそれが恋人の名誉を傷つける結果になっても。
「ドビッチの勲章が取り上げられたら、遺族は嘆くだろうなぁ」
コルゾフは言った。

ドビッチが戻らない哀しみにくらべたら、どうということはない。
たとえ結果がどうなろうとも、真相は究明しないわけにはいかない。
ナターシャは拳銃を抜いてコルゾフに銃口を向けた。
なにがなんでも真相を語ってもらうという意志表示だった。

「どこで話す？」
「あなたの部屋でいいわ」
「わかった。来なさい」

広めのリビングがあるマンションだった。
コルゾフに勧められて、ナターシャはソファに座った。
「お茶……、いや、ウォッカにしよう。
飲まなきゃ、わしも話せないよ」

コルゾフはキッチンに立ち、ピクルスを切って持って来た。
ウォッカの瓶を出し、カットグラスに注いだ。

「女房は早くに死んだんだ。
まぁ、軍にいれば、家事なんてえのは、並みの女よりうまいものだ」
コルゾフは笑った。

「四十年だ。私が軍にいたのは。
三○才で下士官になり、四五才でようやく将校。
君のようなエリートには、我々下級将校の気持ちはわからんだろうね。

四十年勤めても、年金だけではこういう暮らしは出来ない。
わずかな余禄が欲しい。
せめて老後を安楽に暮らすための。
そう考えるのが悪いのかね」

「ドビッチはわしの従者だった」
ゴルゾフ中尉は語った。

「ドビッチには軍のすべてを一から教えた。
軍人として国家のために何をなすべきかは勿論、軍という組織の裏も表もな」

そして、ドビッチはコルゾフの期待に応えて優秀な下士官になった。
軍人としても、またゴルゾフの手足として密猟者とも渡り合い、高額の賄賂を得ていた。

「守備隊をまとめていたのはドビッチだ。
軍人としても優秀だったが、彼が部下に慕われていたのは、賄賂の金を惜しみなく分配したからだ。

休日には兵たちにウォッカを飲ませ、たまにはキャビアを食わせた。
金に困っている兵には相応のものを用立てた。
兵たちは金の出どころは知らない。
一介の下士官に、休日ごとに部下たちにウォッカを奢る金なんてない。
密猟者からの賄賂なくしては出来ないことだ。
だが、そうすることで部隊はまとまっていた。

ドビッチの命令には誰も逆らわない。
田舎の小隊にしては最強の軍だ。
国の役に立つために、わずかの悪事の目こぼしをしただけだ」

「だからと言って不正が許されることではないわ」
ナターシャが言うと、ゴルゾフは「ふふふ」と笑った。

「あんたたちエリートにはわからんのだよ。
現場の下級将校や下士官の苦労はな。

そうして四十年勤めても、食うや食わずの年金暮らしが待っているだけだ。
ドビッチをあんたの従者にしたのは、あんたを見張らせるためだ。
あんたが余計なことを嗅ぎまわらない様にな。
誰が好き好んで女のブーツを磨きたいものか。

だが、あいつはあえて女のブーツ磨きまでやった。
私たちの利益を守るためにね。
ところが……」

ドビッチはナターシャに零落された、とゴルゾフは言った。
「ドビッチは密猟者との取引から降りると言って来た。
そして、密猟者との取引の決別に、大々的な取締りを行うよう私に言った。
拒めば、すべてをあんたに話すと言われ、私は密猟者取締りの指示を出した」

密猟者も驚いて反撃してきた。
雪上車一台が大破した。
あの時だ。ドビッチとはじめてジャンケンをした……。

つまり二人が関係を持つ前から、ドビッチは密猟者と手を切るつもりだった。
それまではゴルゾフの言いなりになるしかなかった。
ナターシャが副官になったので、ようやく決別の決心がついたのだ。

「私は退官後も密猟者からの賄賂が入るはずだった。
それがなくなり、しかもドビッチの奴は士官学校の勉強まではじめた。
やむなくホッチス上等兵を仲間に引き入れたが、あいつは使いものにならなかった」

ホッチスの動きはすぐにドビッチに知られた。
ドビッチ自身覚悟を決めたようだ。
自分の進退も含めて、ことを明るみにするとゴルゾフに詰め寄った。

「ドビッチを殺すしかなかった。
幸いナグルスキー大尉もケルン少尉もボンクラ男だった」

コルゾフ自身が贋情報を流した。
複雑な地形の場所で、地理に詳しいものを同道させねばならないとも書き添えた。
ナグルスキー大尉はドビッチを道案内役に指名し、ケルン少尉がドビッチら五名を率いて現場に駆けつけた。

山の中から、一撃。
コルゾフ自らがドビッチを射殺した。
ケルンはあわてて、敵の襲撃だとわめき散らし、誰もいない森を撃ちまくっていた。

「弾丸がどこから飛んできたかも気がつかんのだ。
エリート将校なんて、あんなものだ。
おっと、あんたは違うようだがね。昨日の応戦は見事だった」

コルゾフはドビッチを殺し、ホッチスを使ってナターシャをおびき出して殺すつもりだった。
しかし失敗し、やむなくホッチスを射殺した。

ゴルゾフは拳銃を懐から出した。
「さっき台所へ行った時に、ウォッカの瓶と一緒に持って来たんだ。
ここに来たのが誤りだったようだな。ナターシャ中尉」

「私が独りで来たとお思いですの？」
「何？」
ドアが蹴破られた。
ドメオ捜査官だった。

「軍のことには係わり合いになりたくないけどさ。
あんた、自分の老後のために何人殺せば気が済むんだい」

ゴルゾフは拳銃をドメオ捜査官に渡した。
「捜査官、武士の情けという言葉を知っているかね」
「知らん」
「日本の言葉だ。死んだドビッチが日本好きで聞いたことがあるんだ。あと１分だけ、ナターシャと話がしたい」

ドメオ捜査官が
「どうする？」
という目でナターシャを見た。
この上、何を話そうというのか。

だが、「武士の情け」と言われて、聞く耳を持たぬわけにはいかなかった。
「いいわ。１分だけ」
「何かあったら呼んでくれ」
ドメオ捜査官は外へ出た。

「何をお話したいと言うの？」
「悪かった」
ゴルゾフは重い口調で言った。

「私にはもう何もない。
四十年の名誉も消えた。
あとは刑務所で暮らすだけだ。
そして、ことが明るみに出れば、ドビッチの名誉も剥奪される。
それを君が望んだ。仕方がない」
そう言うと、ゴルゾフは床に座り、両手を地面について頭を下げた。

「これもドビッチに聞いたんだ。日本人の謝罪だ。なんと言ったのか……」
「土下座よ」
「そう。土下座だ。ホントにすまん」

ドビッチはいつもナターシャを崇拝して土下座をしていた。
いま、ゴルゾフは謝罪だと言って土下座したが、それはドビッチをバカにしたような土下座にナターシャは思えた。

「１分経ったぞ」
ドメオ捜査官が入って来た。
土下座しているゴルゾフを見て、ドメオはなんだと思ったであろうか。

ナターシャはモスクワに戻った。
父にはナグルスキー大尉から報告がいっているはずだが、何も言われなかった。

ナターシャは戦略室から総務部の備品係長に転属させられた。
軍ではあるが、日々の生活は普通のＯＬと同じだった。
「少しのんびりしろ」
と父のロセンスキー大佐は言った。

いろいろあったことに対する父の配慮か。
だが忙しくしていたほうが、ナターシャにはよかった。
そのほうが一時でもドビッチのことを忘れられた。

ナターシャが軍人として生きてゆく決意をするには、そんなに時間は掛からなかった。






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