接吻

作・たぬべえ

第１章　うぐいす 今村浩史はターミナル駅のティールームで、人妻、美咲と会った。 浩史は31歳、小さな広告代理店に勤めている。 最近はスーパーなどでのイベントの仕事があり、土日出勤が多いので代休をとった平日の午後だ。 美咲との出会いはパソコンのＳＮＳだった。 堂ヶ島雲美という、ほとんど売れていない作家がいる。 二年に一度くらい本を出しているが、この作家の作品が浩史にとってツボだった。 調べたらＳＮＳに堂ヶ島のファンが集まるコミュニティがあり、そこでウグイスと名乗る美咲と知り合いメールをやりとりするようになった。 はじめは堂ヶ島の作品の話で盛り上がったが、そんなに数もないのですぐにネタが尽きた。 そのうち他の作家の話をし、子供の頃見ていたテレビや聞いていた音楽や学校の話で盛り上がった。 だいたい同世代だと思った。 一年ほどやりとりを続けた。 ある日、浩史が「会いたいな」とメールしたら、 「ごめん。会えない。人妻なんだ」 との返事があった。 あー、そうなんだ。 そうだよな。31歳の自分と同年代ということは結婚している可能性のほうが高いもんな。 で、なんとなくメールするのを止めた。 いや、浩史にしてみれば、会ったこともない女だ。 相手はブスかもしれないし、なんとなく話で同年代っぽいが、もっと上かもしれないし、場合によったら男かもしれない。 この時はウグイスで、美咲という名前も知らなかった。 ちょっと関心があったが、何が何でも会いたいわけではないし、会ったからって、男女の仲になるわけでもない。 「人妻だから会えない」っていうのはウグイスのほうが意識し過ぎなのである。 そう思ったら、なんか興ざめな思いもした。 仕事が忙しかった。 一週間ぶりくらいに自宅のパソコンをあげたら、ウグイスからのメールがあった。 「人妻だとメールもくれないのね」 そんなことはない。そんなことはないよ。 すぐに返信する。 「たまたま仕事が忙しかった」 「男って仕事って言えばいいと思ってる。主人と同じね」 「ご主人は仕事何してるの？」 「主人のことなんかに興味ないくせに」 「ごめん。確かに興味ない」 「じゃ、いま一番興味があることは何？」 「堂ヶ島の新作かな」 「嘘つき」……。 「嘘つき」の返事をなんて書こうか迷った。 迷っていたら。 「ホントのことを言いなさいよ。何に興味があるの？」 というメールが。 「ウグイスさん」 と思わず返信をしてしまう。 しばらくして返信があった。 「ホントのこと言ったから、会ってあげてもいいよ」 平日しか家を出られない、という美咲にあわせ、休日出勤のある週の代休をとった火曜日に会うことにした。 ターミナル駅のティールーム。 「今村さんね」 声を掛けられた。 会うと決めた時からハンドルネームで呼ぶのはやめようということになった。 ウグイスは美咲と名乗った。 美咲が本名かどうかはわからないが、浩史は今村浩史と本名を名乗った。 薄いグリーンのワンピースを着た小さめの女性だった。 髪はショートカットで、全体にカワイイ。 ２５〜６歳でも通る。 ちょっと下ぶくれの顔立ちだが、唇がいやに艶かしかった。 オレンジ色の口紅が輝いていた。 キスしたくなるような唇とは、こういう唇を言うんじゃないか。 「主婦って案外時間がないのよ。３時にはここを出ないといけないの」 美咲は言った。 「じゃ、とりあえず昼飯でも食おうか」 「そんな暇はないって言ってるの」 美咲に言われるままにティールームを出た。 駅舎を離れ、飲み屋街を抜けると、そこにホテル街があった。 「おい……」 「おじけづいた？」 「そ、そんなわけではないけど」 「それとも、私じゃご不満？」 「そ、そんなことない」 「なら」 適当なホテルに入った。 ここまで来たら。もう普通にするしかないだろう。 浩史は覚悟を決めた。 「シャワー浴びて来る」 浩史はバスルームへ行った。 シャワーを浴びて、腰にバスタオルを巻いた姿で部屋に戻ると、美咲はまだ服のまま、ベッドに座っていた。 ストッキングだけ脱いでいた。 「足、舐めて」 いきなり美咲が言った。 「えっ？」 浩史はちょっと動揺した。 「あっ、ごめん。ＳＭ趣味とかじゃないから安心して。ただ、主人がやらないことを、あなたにはして欲しいの」 美咲は言った。 「わかった」 浩史は床に跪き、美咲の足を押し頂き、舌を這わせた。 浩史は丁寧に一本一本指を舐めた。 初対面の女性の足を舐めるのははじめてだし、いきなり足を舐めたのもはじめてだった。 のけぞるように。美咲は声を上げた。 小指と薬指の間が感じるらしい。 ピンクのパンティが視界に飛び込んだ。 そのまま太股に舌を這わせると、 「まだ駄目。もつと、足。お願い」 美咲が喘ぎながら言った。 浩史の股間はそそり勃っていたが、美咲は足舐めを求めた。 やむなく、浩史はつちふまずに舌を這わせた。 右足を舐めていると、美咲は左足を浩史の股間に伸ばしてきた。 そ、それは、やばい！　 左足を舐めると、右足が伸びた。 それでも30分は浩史も耐えた。 そして、ようやく美咲から股間への愛撫を許されると、その芳しい香りに負けた。 「また会いましょう」 美咲は言うと、そのまま部屋を出て行った。 浩史も急いで服を着ると部屋を出た。 美咲の姿は見付からなかった。 駅舎に着き、とりあえずコーヒーでも飲もうかと、歩いていると、ショッピングモールに美咲の姿を見掛けた。 葱や卵を篭に入れて歩いていた。 彼女は主婦なんだ、と浩史は思い、黙してその場を立ち去った。 浩史は女性と付き合ったことがないわけではない。 むしろモテるほうかもしれない。 浩史が誘って断られたことはあまりないし、女性から告白されたことも何度かあった。 ただ、どの恋も長続きはしない。 喧嘩別れや、浮気が原因で別れたことはない。 仕事が忙しかったりして、しばらく連絡しなかったりしたことで、ふられる、みたいなパターンが多かった。 浩史自身が相手に執着していなかったのか、相手もそれほどでもなかったというのが結論なのかもしれない。 別れてすぐは、たいした仕事でもないのに、時間を作って会えばよかったと悔やんだりもしたが、しばらくすると別の彼女が出来て、それでいいやと思っていた。 美咲と会ったのは、前の彼女と別れて半年ほどだ。 ただし、美咲は彼女ではない。 艶かしい唇には触れることすら許されない。 浩史と美咲の逢瀬はだいたい二週間に一度だった。 浩史が平日に休める日で、美咲が家を出られる日でないとならない。 ターミナル駅のティールームで待ち合わせて、そのまま繁華街の先のホテルに行く。 「たまには飯でも食わないか」 と浩史が言うと、 「そうね。お腹はすくわよね」 と美咲は言い、コンビニに寄っておむすびを買った。 「時間とお金がもったいないわ」 「金くらい……」 飯代くらいは奢るつもりだった。 「別にご飯が食べたくて、あなたと会っているわけじゃないの」 美咲は言った。 そして、ホテルに入ると、 「早くシャワーを浴びて来て」 と浩史に命じた。 浩史は大急ぎでシャワーを浴び、全裸のままで部屋へ行くと、美咲はベッドに座っていた。 美咲は服を脱がなかった。 シャワーも浴びない。 そのまま、浩史を床に跪かせて足を顔に押し付けてきた。 「昨日、お風呂入ってないんだ。私の匂いをたっぷり嗅いで。そして、足の裏を綺麗にしてね」 浩史は必死で足の裏を舐めた。 これが美咲の喜びであるなら。美咲が喜ぶことはなんでもしようと思った。 「ほら、もっと、舌を伸ばしてぺろぺろ舐めなさいよ」 美咲は強い口調で言う。 「はい。奥様」 最近では浩史は美咲のことを「奥様」と呼ぶようになった。 美咲が「奥様」と呼ばれたがった。 「ふふふ。足の裏舐めてもう勃起してるの。変態みたい」 全裸の浩史の欲望は手に取るように美咲にわかってしまう。 「駄目よ。まだ、あなたは足を舐めるだけよ」 美咲が足の裏に力を込めて、浩史の顔を踏みつけるように圧した。 顔が歪む。 「おらおらおら」 美咲が足で浩史の頬をビンタした。 屈辱感が溢れた。 だが、屈辱感と裏腹に浩史の陰茎は充血し、天井めがけてそそり勃っていた。 ジワジワと陰茎の先が濡れているのがわかった。 美咲は右足で浩史の顔を踏みつけ、左足で陰茎の先を突っついた。 ホンの一瞬、美咲の左足の先っぽが触れただけで、精液が出そうになった。 「許してください。出ちゃう……」 浩史は懇願し、こらえた。 「足舐めだけで出ちゃうのね。やっぱ、ヒロ君って変態なんだね」 美咲は勝ち誇ったように言うと、 「おらおらおら」と陰茎をもて遊んだ。 「あーっ！！」 浩史は必死でこらえた。 もう少しの辛抱で先にすすめる。 そう。ここで出したら、美咲はみじめに白濁液にまみれた浩史をあざけり笑って帰ってしまうことがままあるのだ。 何が何でもこらえねば。 「ふふふ。なんとかここまでは我慢できたみたいね」 美咲はようやく、足をどけた。そして、ベッドの上で服を脱ぎはじめた。 「こっちへ来て」 浩史がベッドに上がる。 美咲の唇を求めたが、拒否された。 「上は主人のものよ。ヒロくんが触っていいのは下だけよ。それも手は駄目だからね。さぁ、たくさん舐めて気持ちよくしてね」 夫の領分と浩史の領分が別れているのか。 夫のしないことをするのが浩史の役目なんだ。 美咲の中で、夫、浩史の序列がしっかりある。浩史は夫より低い人間とみなされている。どんな奴だか知らないが、俺はそいつの下位にいる、と思うと口惜しさで涙が出て来た。 「何それ？　嬉し涙？　私の●●●●舐められるのがそんなに嬉しいのか」 美咲は浩史を押し倒すと、そのまま浩史の顔の上に跨った。 陰部を顔に押し付ける。 浩史は必死で舐めた。 美咲は喘ぎまくる。 「ヒロくん大好き、入れて、お願い」 さっきまでの命令口調から変わり、美咲が求めてきた。 浩史の陰茎を求めているのではない。 美咲が求めているのは浩史の舌だった。 浩は舌を美咲の中に押し入れた。 舌なんていうのは短いが、美咲の陰部をこすりつけ、陰茎とは別の快楽に導いていた。 「あーっ！！」 美咲は嗚咽し、そしておしっこを漏らした。 浩史の口の中に、美咲のおしっこが流し込まれていく。 ホテルのベッドの上だ。こぼさず飲まねば。 浩史は人妻の小便を、喉を鳴らして飲みながら、激しく射精した。 「結局、俺はなんなんだ」 服を着ている美咲の後で、浩史はポツリとつぶやいた。 「やっぱりセックスしたい？」 美咲が言った。 浩史は答えなかった。 「セックスは恋人とすればいいじゃない。 ヒロくんだって結婚してもいいんだよ。 恋人や奥さんとじゃ出来ないことを私とすればいいでしょう。 もしもヒロくんが望むなら、私はヒロくんの奴隷になってもいいよ」 「奴隷……」 「性の奴隷だよ。もしもヒロくんがそれがいいならね」 服を着ると、美咲は 「またメールするね」 とだけ言い部屋を出て行った。 浩史は裸でベッドに寝ながら呆然としていた。 まだ時間は午後の３時である。 美咲は家に帰って夫のために食事を作るのだ。 浩史は……。今日はもう何もやることがなかった。 不倫は空しいなぁ。と浩史は思った。 第2章　その友達 「ヒロくんとお酒が飲みたい」 美咲からメールが来たので、その日は夕方に会った。 どうしたんだろう。 夫が出張か何かに行って留守なのか。 いつものターミナル駅で待っていると、美咲が別の女性を連れてやって来た。 「友達の友子」とだけ紹介した。 三人でチェーン店の居酒屋へ行った。 「私たち、お金ないから、ここでいいよね」 美咲が言った。 「酒くらい僕が奢りますよ」 浩史が言うと、 「駄目よ。私たちは恋人じゃないんだから。 奢ってもらったりとか、そういうのは駄目なの。 お金のことは対等でないと」 普通の飲み会になった。 美咲と友子の主婦の世間話を、浩史はうなずきながら聞いていた。 まぁ、こういう日があっても仕方がない。 友子は美咲と同年代で、化粧気もあまりないが、顔立ちは整っている。 美咲は友子に浩史のことをなんて紹介しているんだろう。 今日はホテルに行くこともない。 浩史も心おきなく飲もうと思い、ビールの大ジョッキを呷った。 ２時間ほどで居酒屋を出た。 「カラオケでも行く？」 浩史が誘ったら、 「カラオケはいいわ」 美咲が言った。 「それより、友子が気分が悪いって言うから。いつものラブホテルで休んで行きましょう」 これは３Ｐか、とも思ったが、友子はホントに顔色が悪かった。 ホテルに入り、友子をベッドに寝かせた。 「向こうに行ってて」 美咲に言われ、浩史は部屋の隅に行った。 美咲が友子の服を脱がせて下着姿にした。 「大丈夫？」 浩史が声を掛けると。 「友子は一時間くらい休めば大丈夫よ」 と美咲が答え、 「折角来たんだから、ヒロくん、裸になりなさいよ」 と言った。 友子は熟睡しているようだ。 浩史は覚悟を決めて全裸になり、部屋の隅で美咲の足元にひれ伏し、いつものように足を舐めた。 「何やってるの？」 １０分ほどで寝ているはずの友子が目を覚ました。 友子の視界には、美咲の足元に全裸でひれ伏している浩史がいた。 「なんか悪いことしたの？　土下座なんかしちゃって。 えっ？　待って。ヒロくん裸なの？　 嫌だ、パンツも脱いじゃって。おちんちん見えてるよ」 浩史はあわてて手でチンコを隠した。 あとの祭りだった。 「ねえ、私、気持ち悪い。吐きそう」 友子が突然言い出した。 「駄目よ。そこで吐いたら。トイレに行こう」 美咲が言ったが、 「駄目、間に合わない。おえ」 友子は苦しそうだった。 「ヒロシ、そこに寝て」 美咲が命じたので、浩史はベッドの下に横になった。 「もう駄目。ゲロゲロゲロゲロ」 友子は浩史の裸体の上に戻した。 「ごめんね。ヒロくん」 友子が言った。 美咲がバスタオルを持って来た。 「拭いてから、シャワー浴びといで」 「ふふふ。ヒロくんのおちんちん見ちゃった」 友子がけらけらと笑った。 ゲロまみれの身体を拭きながら、浩史はシャワーを浴びた。 酷い目にあったと思った。 とりあえずパンツだけ履いて部屋に戻った。 「ヒロシ、何、パンツなんか履いてるのよ」 美咲が言った。 いつの間にか、ヒロくんから、ヒロシと呼び捨てになっていた。 「友子さんの前で、その……」 浩史が言うと。 「ゲロ掛けられて、何、恥ずかしがってるのよ」 と美咲は言い、ケラケラと笑った。 「ねえ、美咲、私もヒロくんと付き合っていいよね」 友子が言った。 何を言い出すのかと浩史は思った。 「いいよ。 ゲロ掛けられちゃしょうがない。 ヒロシは友子に譲るよ」 勝手に決めるなよ。浩史が狼狽すると、 「それじゃ、いただきます」 と友子は言い、浩史の前に跪くと、パンツをおろして浩史のチンコをしゃぶりはじめた。 「えっ、あの、何？」 「じゃ、私は帰るから」 美咲は出て行った。 浩史は追おうと思ったが、絶頂に達してしまった。 「じゃ、最初から僕と友子さんを？」 次の週、昼間、美咲に会った。 「うん。ごめんね。ヒロくん」 美咲が言った。 どうやら、美咲が浩史と付き合っていることを話したら、友子が乗ってきて、自分も不倫がしたいと言い出したらしい。 「まぁ、友子が酔っ払って、ゲロまでは計算外だったけどね」 「酷いなぁ」 「で、別の人妻の味はどうだったのよ」。 美咲がテーブルの下で、浩史の手を抓った。 「いい思いしたんでしょう」 あれがいい思いだったんだろうか。 あのあと、友子は浩史のチンコをしゃぶり続け、五回逝かされ、結局、セックスはさせてもらえなかった。 「今日はヒロくん、お仕置きだからね」 美咲が言った。 こんなことを画策したのは美咲なのに、なんで浩史がお仕置きされるんだ？　理不尽なと思ったが、まぁ、不倫なんてえのは理不尽なものだよな。 第3章　その従妹 友子から突然の呼び出しを受けた。 日曜の午後である。 「旦那さんは大丈夫なの？」 浩史は聞いた。 「別に今日はヒロくんと不倫するわけじゃないから」 いつの間にか友子もヒロくんと呼んでいた。 「実は美咲に頼まれたのよ」 「美咲に？」 美咲は一体友達に何を頼んだんだ。 「美咲はヒロくんが美咲にのめり込むのが怖いって」 別れ話を友子にさせようというのか。 そら美咲は人妻だ。いつかは別れが来ることは覚悟していたが、何も友子に別れ話をさせなくてもいいじゃないか。 「でね、美咲や私とは別に、ヒロくんも普通の彼女がいたらいいのにって言うのよ。 彼女がちゃんといれば、美咲とも私とも、わりきった付き合いが出来るんじゃないかって」 どういうことだ？　 別れ話じゃないことはわかったんだが、浩史に彼女を作れというのを、わざわざ友子に言わせるために呼んだのか。 そう言えば、以前に美咲も浩史に彼女がいてもいい、みたいな話はしていた。 「でね、今日は紹介したい女の子がいるのよ。もうすぐ来ると思うわ」 紹介したい女の子？　 まさかまた別の友達を紹介しようというのか。 しばらくして、友子よりは10歳くらい若いのだろう。20代前半のショートカットの女がやって来た。 か、かなりの美人だ。 引き締まった顔で、やや目に剣があるのがいい。 身長もある。 ヒールだと、浩史と並ぶくらいかもしれない。 「紹介するね。私の従兄弟の糸子」 友達の友子の次は従兄弟の糸子って、なんなんだよ。 友子は糸子が24歳で、今、小さな商社でＯＬをしていることと、最近彼氏と別れたこと、今は両親と同居していることなどをまくしたてると、 「さてと、私は子供たちのお昼の支度があるので、これで。あとは若い者同士、頑張ってね」 そう言うとそそくさと帰っていった。 「こんなところじゃ話もなんだからさ、二人きりになれるところ行かない」 糸子がいきなり言った。 カラオケボックスへ行った。 「なーんだ、ホテルに行くのかと思った」 糸子が言った。 「あんた、友子さんと不倫してるんだって」 浩史の情報はどこまで伝わっているんだろう。 というか、友子は彼女を紹介しようというんじゃないのか。 「私さ、まどろっこしいこと嫌いなわけ。 全部正直にいこうよ。 だから友子さんが彼氏紹介してくれるって言った時に聞いたんだよ。 だから、とぼけたりしないで欲しい」 気さくなのか、何も考えていないのか、糸子という女がまったくわからなかった。 まぁ、友子もちょっと変わっていると言ったら変わっているのだけれど。 「わかった。友子さんとは一度だけだ」 浩史はもともと友子の友達と不倫していたこと、三人で飲んだあと、友子にフェラチオをしてもらったこと、セックスはしていないことを話した。 ゲロの一件は流石に引かれると思ったから言わなかった。 「そうなんだ」 友子は浩史の説明に納得したようだ。 「で、浩史君さ」 浩史君？　俺のほうが年上だぞ、と浩史は思った。 美咲や友子は浩史より年上だから「ヒロくん」でもいいが、糸子に浩史君呼ばわりされるのは少し抵抗があった。 しかし、糸子はさらに続けて新たな情報を話しはじめた。 「で、浩史君ってマゾなんだって」 マゾ！　マゾってなんだよ。 それは美咲の足を舐めたり、おしっこを飲んだりしたが、浩史は自分がマゾだと思ったことはなかった。 鞭で叩かれたりするのは勿論嫌だ。 「マ、マゾじゃないよ」 浩史は冷や汗を流した。 「でも美咲さんって人に土下座したり、足の裏を舐めたりするんでしょう」 どこまで友子は喋ったんだ。 というか、美咲の足を舐めていることを、どうして友子が知ってるんだ。 いや、女子の世間話の怖さをいまさらながらに思い知らされた。 「美咲の足は舐めたことがあるよ。それは美咲に、旦那に出来ないことをして欲しいと頼まれたからだ」 浩史は言った。 「私は嫌だよ。 もし浩史が恋人だったら。 私としないことを美咲さんや友子さんとはして欲しくない」。 いつの間にか、浩史と呼び捨てになっていた。 そして、糸子はそう言うと、浩史の前に足を突き出した。 「私の足を舐めて。 付き合うかどうかは、それから決めるから」 糸子がそう言うのなら、美咲にした通りにするべきだと浩史は思った。 浩史はカラオケボックスの床に跪き、糸子の靴を脱がせ、靴下も脱がせた。 そして、足の小指を口に含んだ。 糸子はちょっと緊張しているようだったが、気持ちいいのか、時々目を閉じ恍惚の表情になったが、声を漏らすまいとしているのがわかった。 「やっぱりホテルに行かない？」 糸子が言った。 ホテルに行った。 勿論、美咲と行くホテルとは違うところだ。 「友子さんから、浩史はちょっとマゾだって聞いてたんだ」 糸子は言った。 「だから、それは誤解だよ」 浩史は否定したが、 「でも、さっきの足舐め気持ちよかった。 女の子の足舐めるの、慣れているでしょう」 おそらく美咲とのプレイでうまくなったのかもしれない。 それまでは女性の足を舐めたことがないわけではないが、毎回毎回舐めさせられるのは美咲と付き合いはじめてからだった。 「さっき、私とやらないことを美咲さんや友子さんとしたら嫌って言ったけど、美咲さんや友子さんとやらないことを私として欲しい。 これが私と付き合う条件」 糸子は言った。 「何をすればいいんだ？」 「浩史はホントにマゾじゃないの？」 「マゾじゃないよ」 「だったら、私の前ではマゾになって」 えーっ！！意外な糸子の言葉に浩史は驚いた。 「勘弁してくれよ」 浩史は言った。 鞭で叩かれたり、痛いのは苦手だし。 足舐めくらいならいいが、おしっこを飲まされたりゲロをかけられたりするのも抵抗があった。 それに、土下座したり、女に命令口調でなんか言われるのも抵抗があった。 「普通のセックスしよう。 美咲とも友子とも普通のセックスはしてない」 浩史は言った。 「嘘。そんなの信じられない」 糸子は言った。 交渉決裂だ。 別に糸子と付き合う必要はない。 ホテルに来て、何もしないで帰るのはもったいないとは思ったが、それも仕方ない。 「俺は帰る」 浩史が立ち上がると、 「私だって、サドじゃないわよ。だけど」 糸子は泣き出しそうな声だった。 「くやしいじゃないのよ。 主婦の美咲さんや友子さんがさんざん遊んだ男と、あんた、彼氏と別れて丁度いいから付き合いなさいよって言われて」 浩史もその気持ちはわかった。 だったら、友子にはっきりと断わればいいじゃないか。 「寂しかったのよ。 彼氏と別れて一ヶ月、会社のおじさんたち以外、男性と話すこともなく……」 美咲や友子とうまくやっている男だから、自分もちょっと繋ぎで遊ぶならと思ってきてしまった。 そしたら。 「そしたら。浩史、私のタイプなんだもの」 糸子は小声で言った。 意外な一言に今度は浩史がドギマギした。 「だから、余計に口惜しいのよ。 あんたみたいな男と、なんで主婦の二人がおいしい思いをしているわけ？」 「わかった。わかったから」 「わかったって何がわかったのよ」 「今日だけ、マゾになるよ」 浩史は糸子の勢いに押されて思わず言ってしまった。 「今日だけだ。 今日だけマゾになるから。 そのあとは俺と付き合え。 美咲とも友子とも別れるから。 お前も俺だけの彼女になれ」 結構、男らしく言った。 「そ、それがマゾの科白ですか？」 糸子がいぶかしげに言った。 「一応今のを敬語で言ってください」 なんで敬語で言わなきゃいけない？　 今日だけマゾだからか。 「今日だけマゾになりますから。 明日からは僕の恋人になってください。 お願いします」 浩史は土下座をして言った。 カッコ悪。 でもマゾだから仕方ないや。 すると、糸子はバッグから蝋燭を取り出した。 「用意よ過ぎじゃない？」 「鞭は買えないけれど、これなら一本1000円だった。低温の熱くない奴だって」 下着姿になった糸子が蝋燭に火をつけた。 低温たってかなり熱そうだった。 浩史も裸になり覚悟を決めた。 「さぁ、マゾ君、蝋燭垂らすから、覚悟しなさいね」 糸子は最初こそ、恐る恐る浩史の腕に蝋燭を垂らしていた。 低温蝋燭でたいして熱がらないので、よしってんで体に垂らしはじめた。 ちょっとは熱かったので、浩史も 「熱い熱い。お願いやめて」 とか言ってみた。 しかし、案外、蝋燭は盛り上がらなかった。 「ねえ、ＳＭって、他に何するわけ？」 糸子が聞いた。 そんなの浩史だって、よく知らなかった。 「足舐めとかじゃないか」 「それはさっきやった」 「じゃ、鞭？」 「鞭はない」 「顔面騎乗は？」 「ちょっと恥ずかしい」 「聖水かなぁ」 「何、聖水って？」 「おしっこ掛けたり、飲んだり」 「マジ？　それはヤバイよ」 糸子は言った。 もしもし浩史が美咲のおしっこを飲まされていることを知ったらどうなるだろう。 糸子も浩史におしっこを飲ませるか、流石に他の女のおしっこを飲んだ男とは付き合いたくないと言うだろう。 これだけは秘密だ。 だが、いつ、美咲が友子に、友子が糸子に話さないとも限らない。 「お馬さんごっこは？」 「無難かな」 結局、浩史はパンツ一丁で床に四つ這いになり、下着姿の糸子が跨った。しかし、ラブホテルは狭く、走り回ったりは出来ない。 「つまんないね」 「お馬さんごっこは広いところでないとね」 「ねえ、やっぱりマゾは今日だけ？」 「ダメ？」 「ちょっと研究して、もう一度やりたいよーッ。こんなのじゃ不満だ」 「わかった。次回。もう一回いいよ」 「ヤッターッ」 糸子が背中の上で素直に喜んでいるのがなんか楽しかった。 「じゃ、今日は普通にセックスしようよ」 浩史が言うが、 「うーん、ちゃんとＳＭプレイしてからね。 それから恋人にするか決めたい」 糸子が言った。 なんだよ、またおあずけか。 浩史はがっかりした。 「あれ、なんだ鞭あるじゃん」 その時、糸子が声を上げた。 なんと、ホテルの枕元のパンフレットに、ＳＭグッヅのリースが出ていた。 しかもそうとう安価、いずれも1000円〜2000円だった。 糸子はフロントに電話した。 「すみません、あと２時間延長お願します。 それから、２番の鞭と、16番のボンテージ、レンタルお願いします」 ボンテージも借りるのか。 いよいよ本格的なＳＭプレイかよ。 おばちゃんが紙袋を持ってやって来て、その場で金を払った。 「終わったら、そのまま置いて帰って大丈夫ですから」 おばちゃんは事務的に言うと去った。 糸子は赤いボンテージに着替えて、鞭を手にバスルームから出て来た。 こうなれば毒食らわば皿までだ。 それに興が乗れば、勢いでセックスに持ち込める可能性だって、なきにしもあらずだ。 浩史も覚悟を決めた。 浩史は全裸になって、糸子の前に土下座した。 「糸子女王様、今日はお目に掛かれて嬉しく思います」 考えてみたら、糸子と会うのは今日がはじめてだった。 初対面の女性の前に素裸で土下座している。 俺は何をやってるんだ、浩史は思った。 このところ、何かが変だ。美咲との不倫、そして、その友達の友子にゲロかけられ、フェラチオされ、そして、今、初対面の糸子の前に全裸土下座、そして、鞭で叩かれる。 鞭はバラ鞭だけれど。 「よし。四つ這いになって、お尻をむけなさい」 尻の穴を糸子に見られながら。 ビシッ。 鞭がふりおろされた。 案外、痛い。 仕事が急に忙しくなり、浩史は平日の昼間に休みがとれなくなった。 それで美咲と会うことがなくなった。 それでも電話やメールで連絡を取り合っていた。 「ちょうどよかったわ。私もこのところ体調が優れないから。 お互いの都合のいい時にまた会いましょう。 早くヒロ君に会いたい」 美咲はそう言って電話を切った。 夕方、美咲と少しだけ電話で話をした。 体調が優れない、と言うのがちょっと心配だったが、女にはそういう時もあるのだろう。 美咲との電話を切ると、糸子からのメールが来ていた。 「今日、飲みに行かない」 すぐに返信しないと糸子は機嫌が悪くなる。 「ごめん。今日は残業なんだ」 ホントに浩史は忙しかった。 すぐに糸子からも返信が来た。 「残業なんて嘘でしょう。浮気したら許さないわよ」 浮気なんてするわけないだろう。 美咲も友子も主婦で、夕方にピョコピョコ家を出られるわけない。 あれから。 つまり、浩史が糸子とはじめて会ってＳＭプレイをしてから、二度ほど糸子と会った。 会社が終わってからで、食事をして軽く酒を飲んで別れたが、それですっかり糸子は彼女気取りになっている。 というか、全裸土下座で鞭で打たれているから、糸子はすっかり女王様気取りでもある。 「九時なら来られるよね」糸子は言った。 「そんなに遅く？」 「終電まで３時間ある」 「わかった」 仕事は８時半に終わり、○○駅に向かった。 約束の居酒屋に10分遅れで糸子は来た。 手に映画のパンフレットを持っていた。 「一緒に見たかったけど」 そう言って糸子は微笑んだ。 女の子が見る恋愛映画だ。 誘われても断わったと思う。 断わったら糸子は怒るだろうが。 残業でよかったと浩史は思った。 「ねえ、ＳＭはいつやるの？」 １時間ほど飲んだ時、糸子が言った。 それまで恋愛映画の感想を喋っていたのに。 「ホントにやるのかよ」 「やるよ。面白かったもん」 「面白かったのかよ」 「また、裸になって土下座してよ」 「いやだよ。土下座は嫌だ。それに痛いのも」 「痛かったの？」 糸子が浩史の顔をのぞきこんだ。 「痛かったよ」 「ごめん」 案外素直に糸子は謝った。 「別にＳＭやりたいわけじゃないけど。もっと会って欲しい」 糸子、案外カワイイ。ちょっとクラっときた。 「出よう」 俺は糸子を連れて居酒屋を出た。 「どこ行くわけ」糸子が行った。 「今日やろう」 「何を」 「ＳＭ……」 そして。 ＳＭは前戯だ。一気にセックスして恋人になろう。浩史は思った。 それで、美咲とも友子とも決別しよう。 「今日はちょっと」 「なんで」 「お酒飲み過ぎた、かな」 たいして飲んでいない。 ここに来て逃げる気か。 「いいから」 半ば、強引に、浩史は糸子をホテルに連れ込んだ。 シャワーを浴びたりしていては糸子が逃げるかもしれない。 浩史は上半身裸になると、ソファに座っている糸子の前に跪いた。 「な、何するの」 「だから、ＳＭだよ」 浩史は糸子のハイヒールに唇を触れた。 そこのホテルにもＳＭグッズのリースはあった。 「着るものは選んで」 浩史がパンフレットを見せた。 「ねえ、終電まであと１時間しかないよ」 糸子が言った。 終電？　帰る気か。今日は朝までＳＭプレイだ！ 「私、親と住んでるんだよ。 朝帰りしたら、まずいよ」 早く言えよ。 浩史も流石にテンション下がった。 １時間じゃセックスも出来ない。 タクシーで帰るのもありだが、終電を気にしているのは、終電が糸子の門限なんだろう。 「わかった。ＳＭは今度にしよう。でも」 「でも？」 不安そうな顔で、糸子が浩史を見た。 糸子が彼女気取りなのは、糸子はもう浩史の彼女のつもりなんだろう。 でも浩史がセックスを求めて拒んだら、関係が終わるような気になったのかもしれない。 「セックスしようなんて言わないよ。安心しろ」 浩史は言った。 「でも、せっかくホテルに来たんだ。 少しだけ、イチャイチャしないか」 浩史の提案に糸子はクスッと笑った。 「イチャイチャもいいけど、あれ、よかった」 「何？」 「この間みたいに裸になって土下座してくれない」 「そんな！」 浩史は驚いた。やっぱ、土下座はカッコ悪いよ。それは嫌だ。 「わかった。なら」 浩史の気持ちを察してか、糸子は言った。 「素っ裸になって土下座で頼んだら、チューまでは許す。それでどう」 浩史は素っ裸で床に正座し、糸子の足元に両手をついた。 「頭を下げて」 「糸子様、どうかチューさせてください。お願いします」 糸子は自分たちが一歩前に進む時は、こうやって土下座をして欲しいと言った。 セックスまでにあと何回土下座をしなくちゃいけないんだ。 「まだ頭上げないで」糸子が言った。 「貴重な経験よね。男の人が素っ裸で土下座なんて、なかなかしないし」 浩史の背中に重が掛かった。 糸子が浩史の背中を踏みつけていた。 「でも、浩史君が土下座してくれるんで、私は安心している。 少なくとも、美咲さんや友子さんより優位に立ってる気分になれるから。 だから、外では恋人として優しくして。 で、二人の時は私を崇めて。 そうしてくれたら、いいことも、楽しいことも、いろいろしてあげるから」 糸子は言った。 「わかった。わかりました。で、そろそろチューを……」 「えっ、チューはさっきしたじゃない」 「さっきってなんだよ」 「ここに入った時に、私の靴にチューしたじゃない」 「えっ、それは……」 「女王様は靴にキスしていいなんて許していません。 本来なら、お仕置きだけど」 「お仕置き？」 「お仕置きはこの次ね。浩史君、そろそろ時間だよ」 糸子は帰り支度をはじめた。 「浩史君も早く服着て」 「それはないだろう。どうしてくれるんだ」 浩史のチンコはキスの期待で勃起していた。 「あはははは。早くチンコ小さくして。 あっ、私の前でオナニーとかしないでよ。女王様は許しません」 とほほ。浩史はがっかりしながら服を着た。 駅までの道は、やや急ぎ足になった。 多分、終電には間に合うはず。 五駅で浩史の最寄り駅に着き、そこから20分ほど乗って終点が糸子の最寄り駅だった。 繁華街に入る少し前のところで。 「浩史君」 糸子が声を掛けた。 足を止めた浩史の前にまわった糸子は唇を合わせた。 「あそこでチューしたら、浩史君が欲しくなっちゃうから、我慢したんだ」 糸子は言った。 「土下座してお願いした彼氏を裏切るようなことはしないよ。 私は浩史君を裏切らないから。 浩史君も裏切らないでね」 浩史にとって、糸子はうざい存在だった。 美人には違いないが、はじめてのデートで全裸土下座はさせられるは、ＳＭプレイの真似事で鞭で打たれるは。 そこまでしてもセックスはさせてくれない。 まぁ、浩史としても、セックスさせてくれるかもしれないという下心があったわけで、さらには糸子は、もう一度ＳＭプレイがしたいと言う。 ちゃんとしたＳＭプレイをしたら、恋人として付き合うかどうか考える、と言っていながら、セックスも何もしてないのに、言動が恋人気取りだったりする。 いい加減けりをつけよう。 というか、恋人として付き合うためにＳＭプレイをしなきゃいけないんなら、とっととしてしまおうと糸子をホテルに連れて行ったら、終電で帰ると言ってまたおあずけだ。 だが、その帰り道で、糸子は浩史と唇を合わせ、 「裏切らないで」 と言った。 キスで。 たった一度のキスで。 浩史の心は糸子に傾いた。 美咲には足と秘部を舐めさせられて、おしっこを飲まされた。 でも、キスもセックスもしていない。 友子にはゲロをかけられ、まぁ、それは不可抗力だったのだが。そのあとフェラチオはしてもらったが、彼女とも何もなかった。 やはり、キスというのが大きいんだ。 浩史は思った。 今でも美咲のことは好きだが。美咲は所詮人妻だ。いつかは夫のもとに帰る。 だったら、糸子と真剣に付き合うという選択肢もあるんじゃないか。 糸子は 「裏切らないで」 と言った。 糸子は美咲のことも知っている。 その上で浩史と付き合うのだったら。 浩史は美咲との関係にけりをつけるべきだろう。 第4章　懐胎 「午前中なら」 美咲が言ったので、浩史も半休をとり、いつもの駅のティールームで美咲に会った。 浩史は糸子のことをかいつまんで話した。 ＳＭプレイのことは流石に話さず、友子の紹介で会って、付き合おうと思っていると言った。 「それで」 美咲はジュースを飲みながら言った。 「美咲さんと別れて、糸子と付き合いたい……」 浩史はゆっくりと言葉を選びながら言った。 「いいんじゃない」 美咲は言った。 あんまりあっさり言ったので、浩史は拍子抜けした。 浩史としては、土下座で謝って別れてもらうくらいの気持ちでいた。 それをあっさり、 「いいんじゃない」 と言われてしまったのだ。 「だって、もともと、私はヒロ君と付き合っていたわけじゃないし。 私には主人もいる。 ヒロ君とはただのお友達。 それ以上でも以下でもない！」 美咲にきっぱり言われて、浩史はちょっと寂しい思いをした。 「それにね」 美咲が続けた。 「私も当分、ヒロくんには会えなくなる」 「どうしたの？」 思わず浩史は聞いてしまった。 「妊娠したの」 美咲は言った。 「妊娠！」 浩史が驚いた声をあげたら、美咲はクスクスと笑った。 「男の人って妊娠って言うと、皆、驚くよね」 た、確かにそうだよな。 浩史は驚くようなことはしていないのに、やはり「妊娠」と聞いて驚いてしまった自分が不思議だった。 「主人の子供です。間違いない」 「そりゃ、そうだよね」 「この間、電話で話した時、ちょっと体調が悪いって言っていたでしょう」 言っていた。 ちょっと心配はしていたんだ。 「主人が病院に連れて行ってくれたの。 で、妊娠がわかって。 妊娠と同時にね、主人が優しい人だっていうこともよくわかった」 「そうなんだ」 「だから、しばらく会えない」 「うん。そのほうがいい」 「だって、いつものラブホテル、胎教に悪そうだもんね」 美咲はケラケラと笑った。 どこまで本気で言ってるんだ。と浩史は思った。 「糸子さんって、友子の従兄弟なんだよね」 「うん」 「ヒロ君と糸子さんのことは友子から情報仕入れるから。 うまくゆくといいね」 そう言って、美咲はにっこり微笑んだ。 友子から久々に連絡があった。 仕事が忙しかったが、 「遅くてもいいから会えない？」 とメールが来た。 8時にターミナル駅のティールームで会った。 ティールームのつもりだったが、店は夜はバータイムになっていた。 浩史が行ったら、友子はすでにピザを肴にビールを飲んでいた。 友子が酒を飲んでいる……。嫌な記憶が頭をよぎった。 「どう糸子とはうまくいってるの？」 友子が聞いた。 「糸子に聞けばいいだろう」 「何、そのつっけんどんな言い方、心配して聞いてるのよ」 「うまく……いってるよ」 うまくいってるんだろうか。 キスまではいったが。 それは浩史にとってはかなり大きなことではあるが。 最初に会った時に、全裸土下座させられ鞭で叩かれた。 そのあとも時々土下座させられたり。 「うまくいってるなら、私に感謝しなさいよ」 「感謝……」 「結婚するなら、仲人やってもいいよ」 仲人？　結婚？　そうか。 糸子と付き合うというのは、結婚も視野に入れるということか。 「まぁ、あんたはサラリーマンだから、仲人は上司に頼んだほうがいいよ」 友子は言った。 いや、結婚の話なんてまだないから。 いまから仲人の心配はいらないんだけれど。 「そんなことよりも」 糸子との結婚が「そんなこと」かよ。 「美咲の子ってあんたの子供じゃないよね」 おいおいおい、それかよ。 なんで友子に呼び出されたかが、いま、わかった。 美咲の妊娠を知って、トラブルの火元確認で連絡してきたのだ。 「俺の子じゃないよ」 「ホントに」 「俺、美咲とセックスしてないし」 「ホントに」 「ホントだよ」 「糸子とはした？」 「……」 なんて答えていいんだ。 「してない」って言ったら、嘘に聞こえる。 そうすると、美咲と「してない」と言っているのも嘘に聞こえる。 だいたい何度もラブホテルに行ってセックスしてないというのが、一般常識で言えばおかしいんだ。 いやいや、不倫がそもそも一般常識ではアウトで、セックスしてないから不倫じゃないとも言えなくないが、でも浩史と美咲の関係はやっぱり不倫だったと思う。 「糸子を泣かせないでよ」 友子は言った。 泣かされているのは浩史だと言いたかった。 初日に鞭で叩かれた時に、ちょっと泣いた。 セックスはしてないがＳＭプレイはしたと言ったら、友子はなんて思うか。 浩史のことをマゾだと思うか。 そうすれば美咲との関係も納得するのかもしれない。 「あっ、ビールお替り」 友子が２杯目のビールを注文した。 「友子さん大丈夫？」 「大丈夫。酔っ払ったら、今日は介抱してくれる人がいるし」 「おい……」 「嘘よ。これ飲んだら帰るわ」 「家は大丈夫なの？」 友子は主婦だ。 夕方に酒なんか飲んで帰っていいんだろうか。 「主婦だってね、たまには飲みたいこともあるのよ。 だから、美咲の気持ちはわかるんだ」 「美咲の気持ちがわかるって」 「あんたと不倫もどきしていたこと」 「不倫もどき」と友子は言った。 友子は「セックスしていない」という浩史の話を信じたということか。 「糸子、幸福にしてあげてね」 友子が言った。 「あの子、いい子だから」 「わかってるよ」 そうだよ。糸子が浩史の前で威張るのは、精一杯の虚勢なんだ。 そんなことはわかっている。 第5章　その奴隷 一ヶ月が過ぎた。 浩史は糸子と毎日メールのやりとりをしていた。 そして、週末、デートした。 金曜の夜に食事して、映画を見た。 結構、金が掛かる。 糸子も気遣って、食事はファミレスが多かった。 「デートのお金とかって大丈夫？」 ある日、糸子が聞いた。 「大丈夫じゃないよ」 浩史は言った。 今はとりあえず、ランチは1コイン、コーヒーはコンビニ、ＤＶＤは借りない、でしのいでいる。 「付き合うって決めたら、デートは浩史の家でもいいんだよね」 糸子が妖しく笑った。 それって、デートの度にセックスするって意味か。 なまめかしい唇がそそる。 一ヶ月前のキスの味を思い出した。 「友子さんから聞いたよ」 糸子が言った。 美咲の妊娠のことだろう。 浩史の子供でない、ということは友子は納得したが、糸子は納得したのかどうかはわからない。 「私、心配なんだ」 「何が」 「やっぱり……」 「何が」 「浩史は浮気するでしょう」 浩史が美咲と不倫していたということは、不倫に対して悪意がないから。 だから、誰かに誘われたら、浩史は浮気するんじゃないか。 「どうすりゃいいんだよ」 浩史が聞いた。 「ＳＭ」 糸子がポツリと言った。 「だから、一度なら」 「プレイじゃなくて」 「プレイじゃなくて」 「私の奴隷になって欲しい」 糸子が言った。 なんなんだ。奴隷になれだと？　ふざけるな。 それは糸子は美人だから。「跪け」と言われれば跪いてもいいが。 恋人でなく、奴隷になれって、何よ。 「あれから、私、ＳＭのこと調べたんだ」 糸子が言った。 「鞭や蝋燭で責めるだけがＳＭじゃないの。 私と浩史で主従の関係になれば、奴隷のあなたは私を裏切れない」 何を言っているんだか、意味がわからない。 もういいんじゃないか。 いくらなんでも奴隷になんかなれないよ。 「普通に恋愛じゃ駄目なのか」 「……」 糸子は黙った。 「わかった」 業を煮やして、浩史が言った。 「明日、ＳＭプレイしよう。 それでもし、糸子さんが俺の女主人としてふさわしければ、俺は糸子さんの奴隷になるよ」 奴隷になる気なんかない。 二人きりになったら、今度こそセックスに持ち込んでしまおう。 糸子が付き合いたいと言えば、付き合えばいい。 駄目なら。もう、ジ・エンドでもいいよ。 ただ一度もセックスせずに別れるのは嫌だった。 次の日、土曜日の昼に、いつものターミナル駅であった。 一ヶ月前に行ったラブホテルに直行した。 鞭を借りた。 ボンテージは今日は借りなかった。 「今日は糸子様は女王様じゃない。女主人だから」 浩史は言った。 浩史はバスルームで全裸になった。 全裸のまま、浩史はバスルームを出た。 浩史は糸子の足元に正座した。 浩史のペニスは硬直し、上を向いていた。 「これが今の俺の気持ちだ」 浩史が言うと、糸子はうなずき。 素足で浩史のペニスを踏んだ。 糸子が浩史のペニスを足で激しく責めたので、浩史はすぐに逝きそうになった。 「まっ、待ってくれ、待ってください」 浩史が言ったので、糸子は足をどけた。 何？ という顔で浩史を見下ろす。 「ご主人様を気持ちよくさせたい」 浩史は言った。 「うん」 糸子はうなずき、ベッドに腰をおろした。 浩史は糸子の前に跪き、足を舐めた。 指を一本づつ丁寧に。 美咲とのことが頭をかすめた。 美咲は足の薬指の根元に舌を入れるのが好きだった。糸子は……、少しだけ気持ちよさそうにしている。 「何人くらいの女の足舐めたの？」 糸子が言った。 やはり重いな。 「糸子様は？　何人の男が足舐めたの？」 「足の先にキスした男はいたけれど、そんなに舐めたのは浩史だけ」 ホントかよ。 「だからもう、お願い。他の女の足舐めないって約束して」 「俺は奴隷なんだろう」 浩史が言った。 「奴隷なら命令しろよ」 「うん」 と糸子はうなずいた。 浩史はゆっくりと足のつけねから、ふくらはぎ、太股と舐めていった。 糸子はおおきくのけぞった。 浩史はそのまま、スカートの中に首を突っ込んだ。 「えーっ、何するの」 決まっている。 「そんなことしていいって言ってない」 パンツの上から。まず。ゆっくりと秘部をなぞるように、舌を這わせてゆく。 糸子はあえぎ声を上げながら、浩史の髪の毛を掴んだ。 まるで糸子が浩史の顔を秘部に押し付けているようだ。 一気に行くか。浩史は思った。 糸子を軽くベッドに倒した。 浩史が上になる。 そのまま、パンツをずらした。 そして、秘部に舌を入れた。 糸子の秘部からは液があふれ出ていた。 「ねえ、これってＳＭ？」 糸子が言った。 「ＳＭじゃないよ」 浩史が言った。 「主従の契り。ねえ、糸子様」 そのまま、糸子の秘部に舌を入れた。 糸子は絶叫した。 10分近く、浩史は糸子の秘部を責め続け、糸子は絶叫し、悶絶した。 ここだ、浩史はずるずるとペニスを糸子の秘部へと運んだ。 えっ！ 糸子は体を硬くしたが、すぐに観念したようだ。 ようやく念願が叶う。 そのまま、浩史は糸子の中に入っていった。 「主従の契り、だよね」 ポツンと糸子が言った。 ゆつくりと腰を動かしながら、浩史はとんでもないことをしてしまったのではないか、とも思った。 ひょっとしたら、とり返しのつかないことをしたのか。 「浩史！」 糸子が体を起こして、浩史を求めた。 浩史は腰を動かしながら糸子と唇を合わせた。 舌が絡み合うと同時に、激しい快楽が浩史を襲った。 これでいいんだ。 これが男女の交わりだ。 浩史は己の欲望を糸子の中に放った。 浩史は全身の力が抜けて、ベッドにあおむけになった。 浩史も糸子も無言だった。 数分の時間が過ぎた時だった。 糸子は起き上がると、そのまま浩史の顔の上にまたがった。 顔面騎乗だ。 「恥ずかしいけれど、浩史の服従心を試したいから」 糸子は言った。 今、自分のペニスを入れたところを、浩史は舐めた。 いや、ペニスを入れたのと同じように舌を入れて舐めまわした。 凄い力で、糸子は喘いだ。 悲鳴に近い喘ぎ声を出した。 美咲も浩史に秘部を舐めさせて喘いだが、ここまでではなかった。 それは一瞬だったのかもしれないし、かなり長い時間だったのかもしれない。 ただ、浩史は糸子の愛液にまみれた。 「浩史がまた大きくなってる」 喘ぎながら糸子が言った。 「浩史、普通にマゾなんだ。女の子のお尻の下に敷かれて、おちんちん大きくなるなんて」 「違う」 と言いたかったが、浩史の口は糸子の尻で塞がれていた。 「浩史、選ばせてあげる」 糸子が言った。 何を選ばせてくれると言うんだ。 「私の奴隷になりたいか、それとも普通に尻に敷かれる旦那様がいいのか」 な、なんだ、その二択は。 究極の選択か。 どっちを選ぶんだ。 一瞬、浩史は考えた。 いや、違うだろう。 セックスして、今日で糸子とは「さよなら」するんじゃなかったのか。 目的は達したぞ。 いや、ホントに糸子と別れられるのか。 別れなきゃ駄目だ。こんな重い女。 「どっちがいい？　えっ、聞こえない」 言ってない。というか言葉も出ない。 「じゃ、今から、私が浩史のおちんちんを手でしごくね。1分で逝ったら、奴隷よ。1分以上我慢できたら旦那様。いいわね」 いいも悪いもなかった。 糸子は、おちんちんをしごきはじめた。 「うっ、うっ、あーっ！！」 一度糸子の中に出したのに。もの凄い快楽が襲った。 いけない。 出したら、奴隷だ。 ホントに奴隷にされる！！ 奴隷、奴隷、奴隷。 その響きがさらに興奮を呼ぶ。えーっ？　俺はマゾなのか。 「あーっ！！！」 30秒で、浩史は二度目の射精をした。 しかも、 「いっぱい出たね。浩史は奴隷になりたいんだね」 糸子は言うと、浩史の顔から尻をどけて、ベッドの下に降りた。 「さぁ、奴隷のご挨拶して」 糸子が言った。 浩史は自然に糸子の足元に跪いた。 「待ってくれ」 浩史は言った。 「奴隷にはなりたくないよ」 思わず、浩史の目から涙がこぼれた。 浩史はその場で床に両手をつき、泣きながら言った。 奴隷は嫌だ。 糸子ともっとセックスしたい。 それが浩史の願望だった。 「いいよ。セックスありの奴隷でも」 糸子は言った。 「……」 浩史は言葉が出なかった。 「ちょっと待ってて」 言うと、糸子はバスルームに消えた。 5分ほどして糸子は出て来た。 ボンテージを着ていた。 しかも、オッパイ丸出しのボンテージだった。 「こういうの浩史、好きでしょう」 糸子は言った。 糸子のオッパイを見るのははじめてだった。 「また、大きくなった」糸子は言った。 二度出したのに、浩史は三度勃起した。 「いいわ。今日はいろんなこと楽しもう」 糸子は浩史の頭に自分のパンティをかぶせた。 糸子の手には鞭が握られていた。 奴隷は辛いな。浩史は思った。 鞭は痛い。 バラ鞭は痛くない？　いや、痛いし。女に鞭で叩かれているのが、情けない。 しかも鞭打っている女は、さっきまで浩史がセックスしていた女なのである。 糸子は20発、浩史を鞭打つと手を止めた。 「鞭打ちはあまり好きじゃない」 糸子は言った。 「でも、あなたが浮気をしたり、私に逆らった時は、鞭でお仕置きをすることにしたわ。 いいわね」 まずいぞ。このままではホントに糸子の奴隷だ。 「わかった？　わかったら、もう一回土下座して」 浩史は四つ這いのまま、糸子の足元で頭を下げた。 糸子はピンヒールで浩史の頭を踏んだ。 「奴隷は嫌だよ」 浩史は言った。 もう逃げられないんだ。 でも奴隷は嫌だ。 「だったら、言うことがあるでしょう」 土下座して頭をふまれている状態で何を言えばいいんだ。 「奴隷になりたくないのよね」 糸子が言った。 そうだよ。奴隷なんて、嫌だ。 「セックスだってさせてあげるのよ」 でもこんな風に、土下座はもう嫌だ。 みじめ過ぎる。 好きな女に土下座して、ピンヒールで頭を踏まれるのは、もう嫌だ。 「お願いだ。奴隷は勘弁してくれ」 浩史はふたたび涙を流した。 「奴隷が嫌なら、何になりたいの？」糸子が高圧的に言った。 「なりたいものを言いなさい！」 「糸子様の……」 浩史は言葉を詰まらせた。 言っていいのか。 ホントにもう逃げられないんだぞ。 頭に重が掛かる。 糸子が力を入れて、浩史の頭を踏んでいる。 頭を踏むような女でいいのか。 いや、でも……。 逃げるか、奴隷か、あとの一つの選択肢を選ぶしかない。 「糸子様、結婚してください」 浩史は言った。 糸子は足をどけた。 浩史は頭を上げた。 糸子は勝ち誇った顔で浩史を見下ろした。 「正式なプロポーズは、もっとちゃんとした場所でしてね」 糸子が言った。 もう逃げられない。 浩史は完全に糸子に絡め取られた。 負けたんだ。 そう思うと、改めて自然に糸子の前に土下座をした。 奴隷にはならなくて済むが、おそらく一生、糸子の前に土下座する人生になるんだろう。 厳しいな。 厳しいけれど、年貢の納め時か。 人妻美咲とは、将来のない関係で、ただ足を舐めるだけだった。 正確には、秘部も舐めさせてもらえたし、おしっこも飲まされたが、飯を食うことも、何かプライベイトな話をすることもなかった。 糸子とはいろんな話をして、飯を食い、そして、鞭でも打たれて。 もういいよ。ここらで次のステップに進もうじゃないか。 「いいわ。奴隷は勘弁してあげる」 糸子は言った。 「でも今日は、今日だけは浩史は奴隷でいいよね」 そうだ。いまはＳＭプレイの最中だ。 「はい。今日だけは糸子様の奴隷です」 「うん。じゃ、ヒールを舌で綺麗にして」 糸子はヒールを浩史の顔の前に突き出した。 「案外気分がいいのよ。 男性を跪かせて、靴舐めさせるのって。 でも旦那様に靴を舐めさせるわけにはゆかないからね。今日はたっぷり舐めてね」 観念した。 負けた。 別れようと思っていた女に、土下座でプロポーズしていた。 でも、最後はお互いに全裸になり、糸子はベッドに手をつき、浩史は後から糸子を抱いた。 でも、どうするんだ？ プロポーズはしたものの、結婚なんか出来るのか。 収入も低いし。 「大丈夫だよ。一緒に働けばいい」 糸子は言った。 「糸子さんは俺でいいのか？」 「……？」 糸子は美人だから。 やり方によっては、条件のいい男と結婚するのは簡単なはずだ。 浩史はたかだか社員数30人の広告代理店のサラリーマンでしかない。 たいした出世もしないだろうなぁ。 独立なんか夢のまた夢だ。 「まぁ、条件のいい男は他にもいるだろうけれどね」 糸子は言った。 「土下座してプロポーズしてくれたんだから、仕方なく結婚してあげる」 そう言って糸子は笑った。 一生頭が上がらない。 土下座人生の覚悟が出来るんだろうか。 駅で別れて、アパートに帰った。 帰りの電車の中でも、糸子のことしか考えられなかった。 糸子の尻が顔に乗った感触が蘇る。 また、糸子の形のよい胸の感触も伝わってきて、さっき三度も射精しているのに、また勃起した。 もう馬鹿だな。 尻に敷かれるのも悪くはないのか。 やっぱり覚悟を決めよう。 浩史は思った。 第6章　その父 翌日、夕方、ファミレスで会った。 「いつ親に会いに来る？」 糸子が言った。 親！　そうか。ホントに結婚するのか。 糸子にさんざん土下座させられ、今度は糸子の親にも土下座か。 「そうだな。来月、ご両親の都合のいい時に」浩史は言った。 「その前に、友子さんには報告しないと。彼女が引き合わせてくれたんだし」 糸子が言った。 「ということは友子さんが仲人？」 「馬鹿。友子さんは従兄弟よ。仲人は浩史の会社の上司に頼んでよ」 「上司？」 「それが常識」 確かにそうだな。 でも、仲人を頼むような親しい上司はいない。 確か直属の上司は独身だったよな。 「いっそ、社長さんとかに頼んでみたら」 30人の小さな会社なのに、社長なんか話もしたことがない。 どれだけ俺は下っ端なんだ。会社での自分の位置もよくわかった。. 仲人の話はいずれ考えることにした。 友子には糸子がメールしたら。 すぐに来ると言った。 自転車に乗って友子が来た。 「よかったね」 友子は言った。 無責任な。ホントによかったのか。 糸子が席を立った時に。 「覚悟できたんだ」 友子が言った。 「美咲のことはどうするわけ」 「どうもないよ。彼女は夫のところに帰ったし」 「だよね」 「余計なこと言うなよ」 「どうしようかなぁ」 「おい」 「人の家の波風は楽しい。 嘘嘘。糸子には幸福になってほしいから。 あんた、糸子に尽くしてあげてね」 平身低頭で尽くしている。 それからは、仕事のあと、糸子は浩史のアパートに来た。 二人で夕食を食べて、セックスしたり、しなかったり。 終電１時間前くらいに、糸子は帰り、浩史は駅まで送った。 夕食は惣菜を買ってくることもあったが、たいてい糸子が作った。 糸子の料理はうまかった。 というか、浩史の好みを理解して、工夫して作ったりしていた。 セックスの主導権はわりと糸子が握っていたが、決してＳＭっぽいことは強要されない。 これはもしかして、お得だったのか。 浩史は思った。 「月に一度でいい」糸子が言った。 「何を？」 「ＳＭしたい」 あー、そう来たか。 まぁ、目覚めさせてしまったのかもしれないな。 浩史は観念することにした。 それも含めて糸子なんだ。 一ヶ月後、糸子の家に行った。 「まぁ、そういうことなら、よろしくお願いいたします」 糸子の父は言った。 郊外の家だ。糸子の父はＢ社の営業部長らしい。 結婚式は半年後ということに決まった。 「どこに住むんだね」 糸子の父が言った。 「二間のアパートを借りようかと思っています」 浩史が言った。 「二間だと12万くらいはするよ」 そうなのだ。 家賃は上がっても給料が上がるわけではない。 「もしよかったら、うちの二階に二人で住んだらどうだ」 糸子は台所に立っていた。 「糸子さんと相談して」 「まぁ、何年か住んで、家賃分貯金して家を買ってもいいし、わしらが死んでこの家に住むのもありだ」 どうするよ？ 親と同居だとＳＭプレイはしなくて済むかもしれない。 そんなことが頭をよぎった。 糸子は一人っ子みたいだが。 「家名を残すような家でもないしな」 父は言い、浩史の姓を名乗ればいいと言った。 「将棋はやるのか」 糸子の父が言った。 「はぁ……」 なんだこの展開は。 糸子の父親と将棋を三番さした。 父親は下手の横好きみたいだったので、二番勝ちをゆずったら、そうとう機嫌がよくなった。 糸子と似ている。 糸子も「女王様」と呼んで跪いていれば、気分はいいみたいだ。 糸子は鞭も好きではないと言っていた。 ＳＭをホントにやりたいわけではないのかもしれない。 それからは、土日は糸子の家で過ごした。 親に挨拶した手前、遅く帰るわけにもゆかず、平日は糸子は来なくなった。 週に二度は来るが、おかずを置いて帰った。 「家で両親と食べるのもあと何ヶ月もないし」 糸子は言った。 「糸子さんの家に住むんだろう」 「だけど」 糸子は笑った。 「整理するものは整理しといてよ。元カノからの手紙とか」 糸子は言った。 「そんなものないよ」 確かになかった。 手紙世代じゃないしな。 美咲とはメールすら残していない。 すぐに消す約束にしていた。 美咲の出産と、浩史たちの結婚が同じ頃になるんじゃないか。 「へー、浩史、結婚するんだ」 美咲が言った。 美咲は友子とティールームで会った。 「あんただって、子供産むんでしょう」 「産むけどさ」 「けど何よ？」 「一人で育てるのは大変だよね」 「どういうことよ？」 「主人と別れようかと思って」 そう言って、美咲はため息をついた。 「ど、どういうことよ」 友子が言った。 「なんでもないよ」 「なんでもないことないでしょう。 あなた、子供産むのよ」 「産むよ」 「産むだけじゃないのよ。育てるのよ」 「そうだよね。お金もいるし。やっぱり別れられないよね」 「そうよ」 「うん。夫妻の関係でなく、パパママになればいいだけだもんね」 美咲は寂しそうにつぶやいた。 「ここ来ればいると思った」 次の日曜日の昼、友子が糸子の家に来た。 「話がある」 と言われ、でも糸子一家といる時に、友子と二人きりでは話はしにくい。 昼近く、糸子と母が台所に立ち、父はトイレに行った。 「なんの用だよ」 浩史が聞くと、 「美咲のこと」 と友子は言った。 「そんな話をここでするなよ」 「多分、妊娠で不安になっているだけだと思う」 そのうち父がトイレから出て来た。 「友ちゃん、ホントに世話になったね」 父は浩史と糸子が友子の紹介で付き合ったことは知っている。 もちろん、浩史と友子の関係は知らない。・ 「俺はね、糸子は結婚できないんじゃないかと思っていた」 「そんなことないよ。糸子は美人だし」 「美人は駄目なんだ。 男と付き合っても長続きはしない」 と言って父は 「余計なことを言った」という顔をした。 「いや、別に糸子は男をとっかえひっかえして来たわけじゃないよ。 これはあくまでも一般論だ。 友ちゃん、なんとか言ってくれ」 父は友子に助けを求めた。 「うん。糸子はモテるから。 浩史君、結婚しても気をつけたほうがいいよ。 不倫とかされちゃうかもしれないよ」 「おい、何を言うんだ」 父が怒った。 「だから叔父さん、不倫されないように、結婚してからも糸子に嫌われないように、一生懸命尽くしなさい、って言ってるの。 週三くらいセックスして。 うち一回は女王様と呼んで土下座くらいはしなさい」 「馬鹿なことを言うな」 父は冗談だと思って笑った。 まぁ、月に一回は「女王様」と呼ぶ約束をしているとは、流石に両親には言えない。 第7章　尻叩き 浩史は帰宅後、友子の言葉が気になった。 美咲のことだ。 美咲がどうしたのだ。 電話しようか。 平日の昼間に電話……。 しかし、なんて言うんだよ。 しかも美咲に電話したことが糸子にバレたら。もう糸子と浩史だけの問題じゃないんだ。 やはり、美咲には関わるのはよそう。 浩史に電話しようかと思った。 美咲はちょっと悩んだ。 友子からは浩史が結婚するという話は聞いた。 Ｗ不倫。 でも浩史は要領悪いから。絶対、奥さんにバレるよ。 そうすると泣くのは奥さん。 知らない女が泣くのは嫌だ。 だから、浩史とはもう不倫はしない。 でも、話だけは聞いて欲しい。 「会いたい」 美咲からメールをもらい、浩史はいてもたってもいられなかった。 だが、平日の昼間はもう休めない。 休日は糸子の家に行っていた。平日の夜は美咲が外に出られない。 だが、運命のサイコロが転がった。 夕方まで掛かると思った打ち合わせが2時に終わった。 美咲に電話した。 で、ティールームで会った。 「なんでもない」 「なんでもない？」 「ありがとう。会ってくれて。ホント嬉しかったよ」 美咲はそう言って。 「今日は私が払うね」 コーヒー代を払って、帰った。 ふり返った笑顔が可愛いかった。 「会いたい」ってメールしちゃった。 そしたら浩史は会ってくれた。 それだけで美咲は満足だった。 ズルズル会わないほうがいい。 私は大丈夫だけど、浩史は婚約者にバレるから。 美咲のことがわからない。 美咲と会ったのは10分もなかった。 話したいこともいっぱいあったのに。 日曜日、糸子の家に行った。 「糸子さん、今日、午後、ちょっと出掛けない？」 「いいけど。どうした？」 「うん。家具を、ちょっと見たいんだ」 糸子を連れ出した。 「家具見るんならさ、街道のところに家具センター出来たよ。 車で行けばいい。 なんなら、俺が運転していこうか」 父が言った。 いいよ。 お父さんに来られても困る。 運転は案外得意だ。車はお借りする。 しばらく街道を走った。 「セックスがしたい」 運転しながら浩史は言った。 「うーん、それは……」 糸子はちょっとためらった。 何をいまさら、と思ったが。 確かに、夕方、また家に戻ると、たぶん、お母さんが晩飯の支度をしていて四人で飯を食うんだ。 なんか気まずいというのはある。 やっぱり諦めるか。 「ＳＭなら」 ポツリと糸子が言った。 えーっ、そのほうが気まずくないのか。 どうするよ。 どうするもこうするもないだろう。 家具屋はとっくに通り越した。 高速の入り口近くにラブホテル群がある。 適当なところに車をすべり込ませた。 糸子が下着、浩史が全裸になった。 「普通にセックスしないか」 浩史は床に跪いて、言った。 「手で」 「手で？」 「浩史のお尻、ペンペンしたい」 「なんだよ、それ？」 浩史はベッドに手をついて尻を持ち上げた。 後に立つ糸子に金玉袋が丸見えだ。 「こんな姿、私にしか見せられないね」 「早くしてください」 一応敬語で言う。 「うふふふふ」 糸子は嬉しそうに笑う。 ピシャリ、ピシャリ。 平手で十発叩かれた。 「手は叩くのも痛いね」 糸子が言った。 「でも楽しい」 浩史としては鞭よりは痛くない。 だけど、手で尻を叩かれるのは、恥ずかしい。 糸子が背中に乗って来た。 「お馬になって」 「いいけど」 「どっか広いところで、浩史とお馬さんごっこしたい」 「うん。しよう」 「浩史といろいろ楽しいことしたいよ。私と浩史だけの楽しいこと」 家に帰った。 糸子の両親と食事した。 「ちょっと二階に来て」 食事の後、糸子に呼ばれた。 糸子の家は二階に二間ある。 一間が糸子の部屋で、もう一間が納戸になっていたが、納戸が綺麗に整理されていた。 「ここが浩史の部屋だって」 「三帖？」 「嫌？」 もう仕方ないな。 三帖におさまるように、荷物は捨てるしかない。 こうやって糸子の尻に敷かれて生きるのが運命だった。 「お尻大丈夫？」 「お尻？」 「痛くなかった？」 「痛かった」 別に痛くはなかったけれど。 「お尻叩き、好きかも」 「えーっ、なんで？」 「浩史も好きだよね。お尻ペンペンされて、おちんちん勃ってたよ」 勃つんだよ。そのあとのこととか、いろいろ考えて。 「浩史といると、いろんな新しいことに出会える。 だから、大好き」 そう言って、糸子は唇を合わせて来た。 「お尻叩きより、キスのほうがいい」 キスの後、浩史は言った。 「ほら」 浩史は糸子に自分の勃起したものを握らせた。 「お尻ぶたれなくても勃つんだ？」 あたり前だ。マゾじゃない。浩史は思った。 第8章　住まい 昼休み。会社の同僚の高橋が話があると言ってきたので。ランチに行った。 「お前、結婚するんだって」 高橋が言った。 会社の奴らにはまだ言っていない。 上司にだけ報告はしたので、自然と知れたのだろう。 「水臭いな。俺はお前とはただの会社の同僚じゃない、親友だと思っていたぜ」 確かに、会社では一番話をするが、親友ってわけでもないだろう。 「新居はどうするんだ」 面倒臭いなぁ。 そういう話をしたくないから、結婚の話とかをしないんだよ。 「マンション借りるなら、ひとついい話があるんだ」 「なんだよ」 「俺の大学の後輩でさ、海外赴任するんだって。 お前の今住んでいるアパートと同じ沿線の4LDKの一軒家。 二年で帰って来るから、その間だけ誰かに貸したいって言うんだ」 「４ＬＤＫ？　高いんだろう」 「だからさ、空き家にしておくと、家が傷むから。 借り手探してるんだ。 家賃も格安でいい。 誰でもいいわけじゃない。 二年後には、帰ってくるんだ。 確実に明け渡してくれるって約束で」 どうするよ。 ４ＬＤＫ。夢見たいな話だ。 糸子の家に住めば、三畳一間。 両親もいるから、家でセックスは出来ても、ＳＭプレイは出来ない。 いや、むしろありがたいか。 ４ＬＤＫに住んだら、なんでも自由だが、つまりなんだよ、糸子の自由ってことだ。 毎日ＳＭプレイで、お尻を叩かれ、家事なんかもやらされて。 普通の尻に敷かれる夫どころの話じゃないぞ。 完全に奴隷の生活だ。 「一応、彼女に話してみて。よかったら連絡くれや」 そう言って高橋はランチを奢ってくれた。 なんだよ。 余程、借り手がなくて困っているのか？　 そんだけの条件で借り手がないって、どういうことだよ。 その日の夜、ファミレスで糸子に会い、高橋の話をした。 「もうお父さんたちは準備はしているし。 でもそういう話があったと耳にだけは入れとこうかと思ってな」 「浩史はどうなの？」 「何が？」 「やっぱりうちの親と同居は？」 「そんなの問題ないよ」 「だって。家ではＳＭプレイは出来ないよ」 「家でというか、もうしないよ」 「我慢できるかな」 そう言って、糸子は机の下で、ヒールを浩史の股間に伸ばした。 「よせよ」 「４ＬＤＫ。広いリビングなら、お馬さんごっこ出来るよね」 「したいのか？」 「したい。浩史を尻の下に敷きたい」 結婚すれば、一生浩史は糸子の尻の下だ。 「見るだけ見に行かない？」 糸子が言った。 「見るだけ？」 「お父さんは反対はしないと思う」 「わかった。向こうの都合も聞いてな」 浩史は高橋にメールした。 次の日曜日、浩史と糸子は高橋と駅で待ち合わせた。 「マジかよ」 高橋は糸子を見て言った。 「どこで見付けたんだよ、こんな美人」 「余計なお喋りはいいから。案内しろ」 「おう。歩いて10分くらいだから」 その家は住宅街にある瀟洒な一軒家だった。 「今村君と、その婚約者の、えーと」 高橋が家の主人に、浩史と糸子を紹介した。 「糸子です」 糸子が自分から名乗った。 「こちらは家の主人の小林君」 「小林です」 小林さん……、どっかで会ったことがあるような、ないような。 「なんだよ、今村、小林の顔に何かついているか」 「いえいえ。今村です」 浩史は頭を下げた。 「まぁ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ中へ」 小林に案内され、リビングに通された。 「一階がリビングと二間、二階に二間とベランダがあります。 庭がないぶん、ベランダを広くとってあります」 小林が説明した。 「あっ、すみません。お茶も出さないで」 「お構いなく」 糸子が言った。 「家内が出掛けているもので」 小林が言った。 「じゃ、私がお茶入れます」 糸子が言った。 「ついでにキッチン見せてください」 「はい。では」 小林に案内されて、糸子はキッチンに行った。 「なかなかいい家だろう」 高橋が言った。 「いい家過ぎて。俺たちには贅沢かもな」 浩史が言うと、 「どうせ決めるのは糸子さんだろう」 と高橋が笑った。 「尻に敷かれているのはお見通しさ。 いや、あんな美人なら、俺も尻に敷かれてみたい」 尻に敷かれるのは思ったよりも辛いぞ。 鞭も痛いし。 浩史は言いたかったが、もちろん言わなかった。 今は糸子の尻に敷かれているが、数ヶ月前までは美咲の尻に敷かれて、おしっこも飲まされた。 そんな思いが頭をよぎった。 「ねえねえ、すごいキッチン。私、気に入ったわ」 糸子が笑顔で戻ってきた。 「お前、お茶は？」 「小林さんが入れてくれた」 小林が盆に茶碗を乗せて、糸子の後からついて来た。 「時に小林、奥さん、どこ行ったんだよ」 高橋が言った。 「うん。ちょっとな」 小林は言い、 「実は、高橋さん、それから、今村さんも。 ちょっと事情が変わって。 言い難いんだが、ちょっと話を聞いてください」 あー、やっぱり。高橋から聞いていた金額では安過ぎる家賃だ。もう少し高い金額を言ってくるんだろう。 「この家は七千万で買ったんですが」 小林が言った。 ほら。 やはり家賃の件だ。 「半分でいい。 今村さん、三千五百万、いや、三千万でいいから、この家を買ってはもらえないだろうか」 えっ!!この提案には、浩史と糸子は思わず顔を見合わせた。 この半分の広さの家だって、三千万では買えない。 「いや、よんどころない事情があって、この家をなるべく早く売りたいんだ」 「どういうことなんだ」 高橋は小林の友達だ。心配して聞いた。 「あんまり今村さんたちには言いたくない」 「僕らは席をはずましょうか」 浩史は言った。 「いや、聞いてください。 縁起の悪い話で申し訳ないのだが、僕たちは離婚することになってね。 女房に慰謝料を払うために、現金がいるんでね」 小林は泣きそうな声で言った。 「三千万かぁ」 小林家を辞し、高橋と別れ、ファミレスに入って、糸子がつぶやいた。 「浩史、一千万なんとかならない？　父さんに言ったら二千万くらい出してくれるかも」 「小林さん、七千万で買ったって言っていただろう。一千万ならローン組めなくはないと思うよ。だけど」 「だよね」 糸子はこういうところが、まともだ。 小林は離婚するために家を手放したい。 つまり、小林と彼の妻が不幸になる。 他人の不幸の上で得た幸福なんて碌なもんじゃない。 「いい話だけれど、やっぱそんな家には住めないよね」 糸子は言った。 「糸子の家に住んで、一生懸命働いて、二世帯住宅にでも立て替えるだな」 「だよね」 ちょっと残念そうだが、離婚の話を聞いたら、やはり家は買えない。 「小林さん、離婚にお金がいるって言っていた」 糸子が言った。 まぁ、あの家だ。時間を掛ければ、五千万くらいでは売れる。 小林の妻がどんな女性かはわからないが、時間を置けば離婚せずに済むかもしれない。 ファミレスを出て糸子の家に行った。 途中、携帯が鳴った。 友子からだ。 「友子さん、なんだろう」 電話に出た。 「糸子と一緒？」 「一緒だけど」 「二人で話せない？」 「なんで俺があんたと話をしなきゃいけないんだ」 「いい話なんだけれど」 「なんだよ」 「七千万する家を三千万で買わない？」 はぁ、どういうことだ？ 「まさか、友子さん、小林って人と知り合いなのか？」 「えっ……」 友子が言葉を詰まらせた。 「なんなんだ？」 「なんなの、友子さん」 糸子が心配そうにのぞき込んだ。 「あとで電話する」 友子が電話を切った。 「なんか、友子さんも小林さんの知り合いらしい」 「何それ？」 「わかんないよ」 糸子の家で夕食を食べ、お父さんと将棋をし、そのあと、糸子の部屋に行った。 糸子が椅子に座り、浩史は床に正座した。 これが二人の立ち位置になるんだろう。 膝頭にキスして、そのまま、太股に舌を這わせていた時、糸子の携帯が鳴った。 「メール。友子さんから。家、買わないかって」 糸子が言った。 浩史たちが買わないと踏んで、小林はなんかで知り合いの友子に頼んだ。 友子はまさか、浩史と糸子が小林の家を見に行ったとは知らずに、浩史と糸子に話を持ち掛けてきた。 小林はとにかく早く家を売りたい。 小林のほうが妻と離婚したいのか。 離婚して、浮気相手とでも再婚するんだろうか。 だったら、離婚される妻のことを思うと、ますます買えないよな。 小林から電話があった。 会って話がしたい。 いや、家の件は高橋に断わりを入れたんだが。 「家のことはもういいんです、今村さんとお話がしたい」 と小林は言った。 なんなんだろうか。 （９）その事情 ファミレスで小林に会った。 「店を知らないもので」小林は言った。 接待される専門で、自分で店を探したことがないのか。 浩史にしても、小林に奢ってもらうわけにもいかないから、ファミレスのほうがありがたかった。 「僕は友達が少ないんですよ」 小林は言った。 「高橋は？」 「彼は大学の先輩です。 僕はエリートでもなんでもない。 高橋さんと同じ、Ｃ商科大なんです」 決して偏差値の高い大学ではない。 小林はそれをコンプレックスに思っているのか。 「高橋さんとは、大学時代は一緒に遊んだりはしていましたが、彼には相談しにくいこともあります」 小林は自分の話をはじめた。 親は中小企業の社長で、兄がいて、会社は兄が継いでいるそうだ。 あの家は親に買ってもらったのか？　 それを半値以下で売っていいのか？ 小林は高校までは勉強もあまり出来ず、大学受験は決してうまくゆかずに、Ｃ商科大学に入った。 それが幸いした。 小林は几帳面なところがあり、計算が得意だった。 それまで気付いていなかった。計算が出来ることが自信になり、大学で成績を伸ばした。そして、在学中に公認会計士の資格をとった。 そして、一流会計事務所に就職した。 親や兄や親戚の態度が変わった。 それまでは厄介者扱いだった。 25歳の時に親戚にすすめられ見合いして結婚したのが妻だという。 「そうですか。 僕はＧ大ですが、まぁ、そんなに成績もよくないんで、ただ、賑やかなことが好きなもので、今の会社に入りました」 浩史も言った。 「ですから、小林さんの相談に乗れるようなことなんてないです」 「いや、助かりました。話を聞いてくれただけで」 「まぁ、話を聞くだけでしたら、いつでも聞きますよ」 「妻のことを聞いてくれますか」 「奥様のことは存じませんが」 「妻は浮気をしているんじゃないかと思うんです」 「それが離婚の原因ですか？」 「かもしれません」 「かも？」 「妻は僕と離婚して、浮気相手と結婚したいのかなぁ、と」 小林は不安気に言った。 「堂ヶ島雲美って作家、知っていますか」 小林の口から意外な名前を聞いた。 堂ヶ島は浩史の好きな作家だが、あまり売れていない。 そして、堂ヶ島が美咲と浩史を結びつけた。 「『悪魔のレストラン』って読んだことありますか」 『悪魔のレストラン』は三年くらい前に出た本だろうか。 レストランの女主人が殺人鬼で、客からの依頼で、人を殺し、肉や骨を料理してしまい殺人の痕跡を残さない、そんな話だ。 「レストランの女主人が裏切った恋人を縛り上げて、切り刻むシーンがありまして。 そんな本が妻の本棚に」 「堂ヶ島はシリアスなものも何冊かありますが、たいていはおバカな作品ですよ」 浩史は言った。 「たとえば、『ハイパーエンジェル』は天使みたいにかわいい女の子がいて、告白してくる男の子全員にＯＫしちゃって、男の子たちに試練が襲うという、ドタバタ喜劇です」 「詳しいんですね」 小林が言った。 「堂ヶ島雲美をよく読まれるんですか」 「ええ」 読書のことまで、嘘ついても仕方がない。 「妻は堂ヶ島ファンのＳＮＳで浮気相手と知り合ったらしいです」 なんかいろんな符号がヤバくない？ 友子が小林の家の仲介。 もしかして、美咲が小林の妻か？ 面倒なことに巻き込まれたぞ。 「つかぬことをうかがっていいですか」 浩史はもうストレートに聞くしかないと思った。 「離婚の原因はなんですか」 「いや、その話は」 「小林さんと僕は友達でいいですよね」 「……」 「だったら、聞かせてください」 「わからないんです」 小林は頭を抱えた。 「わからなければ、奥様を知るところから、はじめられたらいかがですか」 「えっ？」 「本棚にあったのは『悪魔のレストラン』だけですか」 「いいえ」 「他にも堂ヶ島の本はあったでしょう。 今も言った通り、堂ヶ島はお馬鹿小説が多い。 読んでみると、奥様の気持ちがわかるかもしれません」 アパートに帰ったら、糸子から電話があった。 「小林さんに会った」 「えっ？　なんで？」 「なんでだかわかんないよ。 会いたいっていうから」 「どうしてもお金がいるのかしらね。 でも、どうしてもあげられないよね」 「だよな」 もう小林には関わらないほうがいいのかもしれない。 第10章　その足に 「糸子さん、堂ヶ島雲美って知ってる？」 「何それ？　知らない」 そら、知らないわな。マイナーな作家だもんなぁ。 「俺、好きなんだよね。堂ヶ島って作家」 「そうなんだ」 あまり反応がない。まぁ、仕方ないか。 次の日曜日。糸子の家に行った。 食事とお父さんとの将棋のあと、１時間は糸子の部屋で過ごすのが、ほぼ日課だ。 「読んだよ」 糸子が図書館のラベルの貼ってある本を出した。 「町内の図書館にはこれしかなかった」 堂ヶ島の小説「女社長様」だ。 20冊以上は本があるはずだが、図書館には一冊しかないのかよ。 そんなもんか。 「女社長様」、どんな話だっけ。 何故か週一で小林と会って三ヶ月が過ぎていた。 毎回、赤提灯だ。浩史が連れて行ったら、小林は赤提灯が気に入ったみたいだ。 いつも堂ヶ島雲美の話ばかりだ。 小林は堂ヶ島の小説から、離婚の原因を探りたいらしいが、わからないようだ。 今日は「柵」という小説を読んできたらしい。 娘の同級生と関係を持ってしまった中年男の話だ。 歌舞伎が元ネタらしい。 「そういうことってあるんでしょうか」 「そういうことって？」 「子供が、妻に子供が生まれるんですが。その子供が年頃になって」 「はぁ」 「妻が離婚したいと言い出したのは、もしかしたら僕が、娘の友達と浮気をするのを心配してではないかと」 そんな話があるわけはないだろう。 歌舞伎っていうのはファンタジーだと誰かが言っていた。 堂ヶ島はファンタジーを小説にしたんだよ。 「ねえ、小林さん、あんた、いい加減、奥さんと向き合ったらどうだい。そういう話をさ、奥さんとしたらいいんだよ」 「はぁ」 小林は頭を抱ええた。 そろそろ、浩史の結婚も迫っているのだ。 「柵、私も読んだ」 小林の話をしてから、糸子は時々、浩史の部屋にある堂ヶ島の小説を読んでいるみたいだ。 「あれはないよね」 糸子は友達の親とセックスをするなんてありえない、と言った。 「お父さんが凄いイケメンだったら？」 「でも、ないかな」 「凄い金持ちだったら？」 「お金でセックスはしないよ。ねえ、浩史」 確かに。 金が男の価値と考える女なら、糸子は浩史とは付き合っていないだろう。 「じゃ、お父さんに土下座で頼まれたら」 「えっ？」 「一度だけでいいからセックスさせてください。って。足元に両手をついて、地面に頭をこすりつけてさ」 「うーん、わかんないから、やってみて」 こんな調子で、浩史は糸子の尻に敷かれているのだ。 「浩史だからしたんだよ。頭を下げれば、誰とでもするわけないじゃん」 浩史自身、何度も頭も下げたし、鞭でも叩かれ、やっとセックスさせてもらえたんだ。 時間が掛かっているし、そうこうする間に、糸子の前では、あらゆるプライドが喪失していた。 「だからだよ。友達のお父さんだって、ホントに好きになっちゃったら、セックスだって、するんじゃないかって話だよ」 「だから、友達のお父さんは好きにならないよ。 好きになったら、皆が悲しくなる相手は、好きになっちゃいけないんだよ」 糸子が言った。 小林と会っている時、携帯が鳴った。 メールだ。 えーっ！　美咲からだった。 「会えない？今から。旦那は友達と飲みに行ってる」 って、旦那は今、浩史と飲んでいる。 「ちょっとすみません」 トイレに立った。 「駅のティールームにいる。一時間なら待っている」 メールの第二報が来た。 「急用が出来た」と小林に言い、美咲のいる駅に急いだ。 乗継が悪く、一時間ぴったりだった。 ティールームから美咲が出て来るところだった。 「来てくれたんだ」 「来るよ。心配だから」 「心配なんだ」 「心配だよ」 「好きじゃない？」 「好きになっちゃいけない人っているんだよ。 美咲さんを好きになったら、皆が不幸になるから」 「わかった」 美咲が言った。 美咲も、たぶん「柵」は読んでいるはずだ。 「最後に足にキスしてくれない？」 「えっ？」 「エレベーターホールの裏、人来ないから。そこでいい」 「わかった」 エレベーターホールの裏で、浩史は床に跪き、美咲のヒールにキスした。 「ありがとう。最後まで優しいね」 「最後だよね」 「最後だよ。もう会わないから」 「うん」 浩史は駅ビルの本屋に寄り、少し時間を繋いでから、改札に向かった。 あっ！ なんと改札に美咲がいて、そこに小林が走って来た。 二人は何か話すと改札の向こうに消えた。 やはり。小林の妻は美咲だった。 これでよかったんだ。よかったんだよね。浩史は思った。 携帯が鳴った。 メールが二本。 「妻とやり直します」小林のメールだった。 「ありがとう」美咲のメールだった。 浩史は糸子と結婚した。 糸子の父は派手な結婚式を望んだが、浩史と糸子は反対した。学生時代からの友達五人づつと親戚だけの結婚式にした。会社の同僚も呼ばなかった。 「上司を呼ばないと出世に影響が出る」 父が言った。 「出世は望んでません。というか、同族会社ですから。出世出来ない」 「君らしいね。ちょっと不安になってきた」 父はホントに心配そうだった。 糸子と結婚してやっていけるのか、むしろ浩史のほうが不安だった。 糸子の家の二階に住んだ。 やはり、ここではセックス出来ない。 「子供欲しいよね」 糸子が言った。 「週末、街道のラブホに行く？」 「だな」 「浩史のおこずかい減るけど」 「そういうことになるのか」 「なるのよ」 尻に敷かれることはわかっていたが。 ラブホで糸子はボンテージを借りて着た。 「ＳＭじゃ子供出来ないよ」 「セックスありのＳＭなら、子供出来る。 ＳＭのほうが、浩史も興奮するでしょう」 「家では尻に敷かれて、ここでは奴隷か」 「家では尻になんて敷いてないよ。だから、ここで敷いてあげるね」 もう観念するしかあるまい。 浩史は全裸で床に正座し、ボンテージの糸子の足元に両手をついて頭をさげた。 「うんうん。やっぱり浩史の土下座は嬉しいよ」 「俺は辛い」 「嘘。おちんちん勃ってるよ」 確かに。勃起していた。 俺はマゾなのか。 「浩史は奴隷じゃないよ。浩史は浩史だから」 そう言って糸子は足を出した。 浩史はいざり寄って、足にキスした。 「これからもよろしくね。人生一緒に歩んでいこうね」 糸子が言った。

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