接吻

作・たぬべえ

第４章　懐胎

「午前中なら」 美咲が言ったので、浩史も半休をとり、いつもの駅のティールームで美咲に会った。 浩史は糸子のことをかいつまんで話した。 ＳＭプレイのことは流石に話さず、友子の紹介で会って、付き合おうと思っていると言った。 「それで」 美咲はジュースを飲みながら言った。 「美咲さんと別れて、糸子と付き合いたい……」 浩史はゆっくりと言葉を選びながら言った。 「いいんじゃない」 美咲は言った。 あんまりあっさり言ったので、浩史は拍子抜けした。 浩史としては、土下座で謝って別れてもらうくらいの気持ちでいた。 それをあっさり、 「いいんじゃない」 と言われてしまったのだ。 「だって、もともと、私はヒロ君と付き合っていたわけじゃないし。 私には主人もいる。 ヒロ君とはただのお友達。 それ以上でも以下でもない！」 美咲にきっぱり言われて、浩史はちょっと寂しい思いをした。 「それにね」 美咲が続けた。 「私も当分、ヒロくんには会えなくなる」 「どうしたの？」 思わず浩史は聞いてしまった。 「妊娠したの」 美咲は言った。 「妊娠！」 浩史が驚いた声をあげたら、美咲はクスクスと笑った。 「男の人って妊娠って言うと、皆、驚くよね」 た、確かにそうだよな。 浩史は驚くようなことはしていないのに、やはり「妊娠」と聞いて驚いてしまった自分が不思議だった。 「主人の子供です。間違いない」 「そりゃ、そうだよね」 「この間、電話で話した時、ちょっと体調が悪いって言っていたでしょう」 言っていた。 ちょっと心配はしていたんだ。 「主人が病院に連れて行ってくれたの。 で、妊娠がわかって。 妊娠と同時にね、主人が優しい人だっていうこともよくわかった」 「そうなんだ」 「だから、しばらく会えない」 「うん。そのほうがいい」 「だって、いつものラブホテル、胎教に悪そうだもんね」 美咲はケラケラと笑った。 どこまで本気で言ってるんだ。と浩史は思った。 「糸子さんって、友子の従兄弟なんだよね」 「うん」 「ヒロ君と糸子さんのことは友子から情報仕入れるから。 うまくゆくといいね」 そう言って、美咲はにっこり微笑んだ。 友子から久々に連絡があった。 仕事が忙しかったが、 「遅くてもいいから会えない？」 とメールが来た。 8時にターミナル駅のティールームで会った。 ティールームのつもりだったが、店は夜はバータイムになっていた。 浩史が行ったら、友子はすでにピザを肴にビールを飲んでいた。 友子が酒を飲んでいる……。嫌な記憶が頭をよぎった。 「どう糸子とはうまくいってるの？」 友子が聞いた。 「糸子に聞けばいいだろう」 「何、そのつっけんどんな言い方、心配して聞いてるのよ」 「うまく……いってるよ」 うまくいってるんだろうか。 キスまではいったが。 それは浩史にとってはかなり大きなことではあるが。 最初に会った時に、全裸土下座させられ鞭で叩かれた。 そのあとも時々土下座させられたり。 「うまくいってるなら、私に感謝しなさいよ」 「感謝……」 「結婚するなら、仲人やってもいいよ」 仲人？　結婚？　そうか。 糸子と付き合うというのは、結婚も視野に入れるということか。 「まぁ、あんたはサラリーマンだから、仲人は上司に頼んだほうがいいよ」 友子は言った。 いや、結婚の話なんてまだないから。 いまから仲人の心配はいらないんだけれど。 「そんなことよりも」 糸子との結婚が「そんなこと」かよ。 「美咲の子ってあんたの子供じゃないよね」 おいおいおい、それかよ。 なんで友子に呼び出されたかが、いま、わかった。 美咲の妊娠を知って、トラブルの火元確認で連絡してきたのだ。 「俺の子じゃないよ」 「ホントに」 「俺、美咲とセックスしてないし」 「ホントに」 「ホントだよ」 「糸子とはした？」 「……」 なんて答えていいんだ。 「してない」って言ったら、嘘に聞こえる。 そうすると、美咲と「してない」と言っているのも嘘に聞こえる。 だいたい何度もラブホテルに行ってセックスしてないというのが、一般常識で言えばおかしいんだ。 いやいや、不倫がそもそも一般常識ではアウトで、セックスしてないから不倫じゃないとも言えなくないが、でも浩史と美咲の関係はやっぱり不倫だったと思う。 「糸子を泣かせないでよ」 友子は言った。 泣かされているのは浩史だと言いたかった。 初日に鞭で叩かれた時に、ちょっと泣いた。 セックスはしてないがＳＭプレイはしたと言ったら、友子はなんて思うか。 浩史のことをマゾだと思うか。 そうすれば美咲との関係も納得するのかもしれない。 「あっ、ビールお替り」 友子が２杯目のビールを注文した。 「友子さん大丈夫？」 「大丈夫。酔っ払ったら、今日は介抱してくれる人がいるし」 「おい……」 「嘘よ。これ飲んだら帰るわ」 「家は大丈夫なの？」 友子は主婦だ。 夕方に酒なんか飲んで帰っていいんだろうか。 「主婦だってね、たまには飲みたいこともあるのよ。 だから、美咲の気持ちはわかるんだ」 「美咲の気持ちがわかるって」 「あんたと不倫もどきしていたこと」 「不倫もどき」と友子は言った。 友子は「セックスしていない」という浩史の話を信じたということか。 「糸子、幸福にしてあげてね」 友子が言った。 「あの子、いい子だから」 「わかってるよ」 そうだよ。糸子が浩史の前で威張るのは、精一杯の虚勢なんだ。 そんなことはわかっている。

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