塞翁が馬

作・たぬべえ

１０

翌日、真由美は上司の稲垣常務に呼ばれていた。 「秋野紅葉の野郎、うちとのライセンス契約を断わって、事務所作りやがった」 「まぁ、紅葉クラスなら、普通に権利を管理する事務所くらい、あって当たり前ですよ」 「会社のホームページ見たんだが、社長の奥田定次郎っていう奴は著作権専門の弁護士だ。大手のＱにいたようだ」 「Ｑの弁護士がついていたら、うちとは契約は結びませんよ。 もっとも会社が条件を変えれば別ですが」 「そんな予算はない。 あと、営業部長だが、名前は聞いたことがないんだが、検索しても出て来ない。 だが、どっかで見た顔のような気がするんだ」 「まぁ、業界はいろんな人がいますからね」 「間君、知らないか。 中山進一っていうんだが」 真由美はつとめて平静を装い、稲垣の部屋を出た。 紅葉は義理堅い。 でも、営業部長は驚いたよ。 そう言えば、進一が言っていた。 人間万事塞翁が馬、だって。 そうだよ。 自分もこんなことで負けていられないんだよ。 デスクに戻ると、初美や小百合の出した企画書に目を通しはじめた。 新しいことをやって、会社を儲けさせてやればいいだけじゃないか。 「痛い痛い」 あゆが突然、叫んだ。 「あゆちゃん、どうしたの？」 スタッフが駆け寄った。 事故の後遺症だろうか。 あゆが腕を押さえて座り込んだ。 あゆは入院した。 「詳しく検査をしないとわかりませんが」 医者は深刻な表情で言った。 話を聞いていた真由美は息を飲んだ。 「今のところ、どこも悪くはありませんね」 この野郎、叩き殺してやろうかと、真由美は思った。 何、もったえつけた言い方してるんだ。 でも、とりあえず、真由美はホッとした。 「おそらく精神的なものだと思う。 何かうしろめたいことが事故のちょっと前くらいにあって。 これは精神科の領域ですがね。 罰が当たって事故に遭ったみたいな気持ちがあって、それが痛みになっているんじゃないか。 あくまで、憶測です。 通り一遍の検査じゃわからない、他に悪いところがあるのかもしれない。 精神科を含めて、一週間くらい検査入院してみましょう」 この医者の言うことがどこまで当てになるのか。 一応、大病院なんだけれど。 なんかセカンドオピニオンにしたほうがいいのか。 でもまぁ、検査の結果を見てからでいいだろう、と真由美は思った。 そう言えば、あゆの悩みを進一がいろいろ聞いていた、らしい。 これは進一に会うべきなんじゃないか。 でも、進一はいま、紅葉の事務所の新任の営業部長だ。 忙しい中を呼び出すのも悪いかもしれない。 いや、真由美が呼べば、進一は必ず来るだろう。 だからこそ、呼び出すわけにはゆかないんだ。

★

「学校作ろうと思う」 突然、紅葉が言い出した。 「学校ですか。つまりデザイナー学校？」 進一が言った。 「だって、他に僕が教えられることないよ。 いまも弟子は五人いるけれどさ。 広く深く、若い人にいろんなこと教えてあげたいの」 紅葉は何を言い出すかわからない。 学校ってどうすれば作れるんだよ。 進一は困惑した。 「中山君は乗り気じゃないようだね。 鮫島君はどう思う？」 紅葉は亜紀に聞いた。 「いいと思います。 学校は儲かりますから」 やはり亜紀はちゃんとものを考えて発言出来る。 こりゃ、そろそろ部長交替か。 進一は思った。 「部長、ちょっと見ていただけますか」 亜紀が書類を持ってきた。 「何？」 見たら「秋野紅葉デザイナースクール企画書」とあった。 亜紀はホントに出来る女なんだ。 「思いつきで作ったんで、部長に精査していただきたいと」 ははは。 あきらかに、亜紀は進一より能力が高い。 行動力もある。 これはもう仕方がない。 亜紀を紅葉の会社に入れたのは進一だが、紅葉の会社の部長にふさわしいのは進一じゃない。 亜紀だ。 負けた。 せっかく掴んだ地位だが、進一はその任ではなかった。 もともと紅葉の贖罪だか気まぐれでなったんだ。 ここで亜紀に嫌がらせをして追い出すのは、紅葉のためにも自分のためにもならないんだ。 せめて紅葉に頼んでヒラ社員で会社に置いてもらえたら。 亜紀の部下になって、仕事を一から仕込んでもらおう。 そうすれば、この先、リストラになることもない。 だが、亜紀に年上の部下は使い難いから嫌だと言われるかもしれない。 その時はその時だ。 またハローワークに通えばいいだけだ。 「鮫島さん、この企画は鮫島さんの企画として、紅葉に見せましょう」 「鮫島さんは優秀です」 「それはわかっている」 奥田は言った。 まぁ、わかっているとは思うよ。 「学校の企画書は、明日、もみちゃんに見せよう」 「よろしくお願いいたします」

★★

その日、進一は亜紀をバーに誘った。 できれば、ヒラ社員に降格になっても、自分を部下として使って欲しい。 「近々、鮫島さんが部長になって、僕はたぶんクビになる」 進一は言った。 「そんなことはないですよ」 「聞いてくれ。 その時、僕はヒラ社員として、鮫島さんの部下にしてくれないだろうか」 「嫌だ」 「駄目か」 「私、男性の部下には厳しいですよ」 「厳しくてもいい」 「Ａ社では男性上司から、セクハラに近いこともされたから」 「それは大変だったね」 「だから、秋野先生も奥田社長も、もちろん、部長も、そういうことがなくて、私は嬉しいんです。 部長を差し置いて、私が部長になんかなりませんよ。 部長は恩人ですし」 「でもあきらかに君のほうが能力が上だ」 「もしも部長が部下になりたいっていうなら、そうね、私の靴が舐められます？」 「そら、命令ならね」 あゆの靴を舐めた記憶が蘇った。 「そうね、他の部下の前で、私の前にひれ伏して、靴を舐められたら、部下にしてあげてもいいわ」 亜紀はそう言って、グラスを口に運んだ。少し酔っていた。 「よく書けているけれど、これじゃ、駄目なんだ」 翌日、紅葉が事務所に来て言った。 「何が駄目なんでしょう」 進一が聞いた。 「僕はね、優秀なデザイナーも育てたい。 それと同時に、デザイナーをサポートしてくれる優秀なスタッフも育てたいんだ」 「スタッフ？」 「奥田ちゃんみたいな悪徳弁護士や、君の前の会社みたいな、小ずるく僕たちを安く使おうという奴らから僕たちを守ってくれるようなスタッフをね」 「ファッション業界のスタッフを養成したいとおっしゃるんですか？」 「難しいかな。 彼女に相談してみてよ。 君の前の上司、真由美君、彼女は記者も経験してるし、優秀なスタッフだよ」 「私、恥ずかしい」 亜紀が言った。 「もしかしたら、自分には能力があると思っていました」 「鮫島さんは能力があるよ」 「部長にも昨日、酷いこと言っちゃった。忘れてください」 「何を言ったかなんて覚えてないよ」 進一は家に帰ってから、亜紀の靴を舐めるのを想像してオナニーしてしまった。

★★★

「連れて行ってください」 亜紀が言った。 「秋野先生が意見を聞けと言った人に、私も話をうかがいたいです」 真由美に電話した。 「中山君！　私もあなたに話がしたかったの」 「いや、実はですね」 「あんたの話はあとにして」 「はい」 真由美は相変わらず強引だった。 「あゆが、神林あゆがね」 あゆは夢を見ていた。 誰かが、自分の前に跪いて足を舐めていた。 「マスター？」 「違うよ」 「旬？」 「そんなわけないだろう。僕だよ」 「中山君？」 「そうだよ」 「なんで逃げたの？」 「あゆちゃんに顔を合わせられないと思った」 「そんなことないよ！」 「あゆちゃん！」 はっと目を覚ました。 あゆは病院のベッドの中にいた。 病室のドアのところに、進一か立っていた。 「つまり、進一君はあゆと付き合っていたんだね」 真由美が病院のロビーで言った。 「今にして思えば、進一君とセックスしなくてよかった。 あゆに刺されるかもしれない。 あゆって凄い焼餅妬きよ」 いや、あゆとちゃんと付き合ったら、浮気はしない。 あゆが前の彼氏の浮気で苦しんでいたのを知っている。 亜紀がジュースを買って来た。 「あー、あなたが鮫島さん？」 「はい」 「企画書見たわ。 凄い優秀ね」 「ありがとうございます」 「南の代わりにうちに欲しい」 「南さんの代わりって？」 進一が聞いた。 「南は田舎に帰ったの。 あの子、観光ホテルの娘で、女将になるんだって」 南小百合はちょっと男気のある、それでいて優しい女性だった。 「あと、初美はニューヨークに行くって。 デザインの勉強にね」 初美には股くぐりをさせられた。 はじめて土下座させられたのも初美だった。 でも才能のあるデザイナーだ。 きっとビッグになるんだろう。 「で、真由美さん、紅葉のスタッフを育てたいっていう学校の件、相談にのってくれますか」 進一が聞いた。 「私は紅葉とはもう関わり合いたくないの。 これからは紅葉の面倒は、進一君に任せたから」 「でも学校となると」 「そうね。 スタッフを育てたいなら、いい講師を紹介する。 梅田松子なら完璧じゃない？　 あとは松子と相談して」 「そら、松子さんなら、願ったりです」 「松子と鮫島さんのサポートがあれば、きっといい学校が作れるはず。 私は、紅葉の学校の卒業生が、デザイナーでもスタッフでも好環境で働けるように、今の会社で頑張る。 お互いに頑張りましょう」

★★★★

検査の結果、あゆの腕の痛みも異常はなかった。 あゆは一週間後退院した。 「進一の家に行きたい」 あゆが言った。 「いいよ」 退院までの間に、進一は２ＬＤＫのマンションに引っ越していた。 「ここで同棲しないか」 「マジ？　うれしい」 その夜、進一とあゆはベッドをともにしたのだが。 「私、進一と会えない間に、進一の喜びそうなこと、研究したんだ」 マスターとのことは墓場までの秘密にするつもり。 あゆの腰にはペニスパンドが装着されていた。 「進一、これから楽しいこと、いっぱいしようね」 四つ這いの進一の後から、あゆが微笑んだ。 人間万事塞翁が馬だな。

おしまい

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