| 渚の戯れ |
| １．１９８７年８月２日（日）１２時２６分２０秒 エルナン浜 其の時謙治は、ひりつくやうな喉の渇きを覚えてゐた。 それは、必ずしも、中天の烈日に炙られたが故にではなかった。 「ねえ、お願ひがあるの」 謙治の渇感は、渚に強請（ねだ）られた瞬間に始まってゐた。 其れは、二人が、南の国の人気（ひとけ）の絶へた砂浜に共に水着で座し、談笑に耽ってゐる時のことであった。不図話題が途絶へ、暫し二人して潮騒に耳傾けてゐると、渚が、沈黙を破るべく、頭（こうべ）を巡らし、謙治を上目遣ひに見つめて囁（ささや）ひたのであった。 「ねえ、お願ひがあるの」 十八歳の少女の瞳に、稚気と微かな嬌態とが漂ってゐた。 「？」 訝る謙治の耳に、渚の声が甘く響いた。 「この前みたいに、渚のお馬さんになってくださらない？」 矢庭に謙治の心拍はドクン、ドクンと太く打ち始め、激しい咽喉の渇きを誘ったのであった。 謙治の動揺は、渚が初めて見せた婀娜っぽい表情であったからといふよりも、むしろ、彼女の申し出が、まさに謙治自身が心密かに待ち望んでゐたことだったからである。 「え？」 さも愕いた風を装ひ、動揺を懸命に抑へて、謙治は応へた。 「いやだなあ。だって渚ちゃんは重いんだもの」 「まあ、イジワルね」 拗ねたやうな渚の反応は、謙治の予期した通りであった。 「仕方がないなあ。でも、一寸丈だよ」 少女の懇願に折れ、渋々の態で砂上に這った謙治であったが、騎乗を誘ふが如く背中を反らせた姿勢が、不承不承を装う彼の言葉を完全に裏切ってゐた。 足許で馬の姿態をとる謙治を満足げに見下ろした渚は、莞爾として彼の背を跨ぐや、忽（たちま）ちそのまろやかなる腰を四つ年上の男友達の肉付き良好なる背上に委ねる・・・筈であった。 ところが―― 謙治を跨いだまま渚は、腰を落とすのを躊躇（ためら）ふが如く佇立してゐる。 否。躊躇ひではない。好物の馳走を前に、敢へて着箸を猶予し、しばし心中に舌舐ずりして美味堪能の予兆を愉しむのが、渚の好む流儀なのだ。 踏み開いた両脚の間に謙治の体躯を挟んだまま、渚は、黒髪を掻き揚げ、手指で悠然と梳き始めた。 謙治の動悸は、彼女が髪を弄（いぢ）ってゐる間に昂まりを更にし、咽喉の渇感を耐へ難いものにした。今まさに始まらんとする戯れへの、強い期待。そして、その戯れは、気紛れなる少女の心移りによって、始まる前に終はって了ふのではないかと云ふ、強い不安。 「やっぱり、止めにするわ。馬になんかしたら、謙治さんが可哀相だもの」 果たして渚の猶予が躊躇を意味するのなら、彼女がさう云って戯れを中止する可能性は十分にあるやうに謙治には思はれた。さうなると、遥遥海を越へてこの海岸にまで来た甲斐がないと云ふものだ。 髪を梳き了へた渚は、次に、尻に付着した砂を掃ひ始めた。謙治の背に、渚の尻から剥がれた砂塵がぱらぱらと零れ落ちてきた。 常夏の国の陽光がじりじりと謙治の焦燥を加速する。 ＜好物＞を眼前にしての渚の儀式は、時間にすれば僅々十秒にも満たなかったに違ひない。しかし、既に背まで撓めて被乗を待機する謙治には、それは永劫につづくかと思はれた間（ま）であった。彼の焦燥を嬲るが如き渚の悠長。彼女に強請られた時に感じ始めてゐた喉の渇きは、愈愈激しく、ひりひりと迫る。 謙治は、つひに耐へきれず、体面を放擲して催促の声をかけやうとした。 その刹那、彼の背を、冷ややかな女の尻が圧迫した。 |
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| ２．１９８７年７月１２日（日）午後１時１９分 海水浴 「この前みたいに、渚のお馬さんに―――」 さう、其れは、渚と初めて海浜に遊んだ、二十日許り前の出来事であった。 あの頃は、まさか渚と二人で海外に旅することにならうとは、夢だに想はぬ謙治であった。謙治にとって渚は、数多（あまた）の女友達の一人に過ぎなかったのである。 謙治と兄の裕一を知る者たちの間では、概して謙治は純で晩生（おくて）だと評されてゐたが、其れは、無論、兄と比べればの話であった。昨日初潮を迎へたやうな生娘から、四十路の人妻、さらには閉経の未亡人に至るまで、多岐にわたる数限りない女たちと同時進行の情交を重ねた挙句、《昭和源氏》なる称賛とも揶揄ともつかぬ異名を奉られた兄・裕一には敵はないにしても、謙治も亦、遊冶郎（いうやらう）と称される資格は十分に有してゐた。彼がこれまでに交渉を持った異性の数は、二十二歳にして既に遍歴と呼びうる域に達してゐたのである。兄と同じく類ひ稀な美貌と肉体に恵まれた謙治に対して、女たちが無関心でゐられよう筈がなかったのだ。 さやうに数多の異性と交際してきたとは謂へ、謙治の相手に対する感情には自ずから軽重があった。それまでに彼が心から愛おしく思ひ、深い交際をした女性は、僅々三名であって、他は、畢竟、女友達であるに過ぎなかった。物の弾みで、世に云ふ友達としての一線を超えることなどはざらにあったとしても。 謙治の心中で、渚は、後者、即ち単なる女友達に分類されるべき存在であった。地方から出てきたばかりの、純朴で、けして不美人ではないが取りたてて美人といふわけでもない女学生に、絢爛豪華な女好みの彼が強く惹かれる理由はなかった。 この年の春、青薔薇女子大に入学した渚は、親元を離れ、マンションでの独り暮らしを始めてゐた。大都会での暮らしにも漸く慣れはじめた六月半ば、彼女はサークルの仲間に誘はれ、白門大との合同ハイキングに出かけた。そこで出会ったのが謙治であった。 もっさりと冴へない男の子の多い白門大生の中で、容姿も服装も女性の扱ひに於ても垢抜けした謙治は特異な存在で、《白大の貴公子》として渚の学校でも広く知られてゐた。その謙治が、地見目な渚を気に入った様子で、ハイキングの間中、何かと云っては渚に話し掛けてくる。合ハイが終はる頃には、二人はカップルと云った風情で、これには皆、些か愕いた。もっとも、一番愕いたのは謙治自身であったかも知れない。 彼女と出会った頃、謙治は、偶々（たまたま）、優子と云ふ名の、二つ年上の艶麗なる職業婦人との恋愛に終止符を打ったばかりであり、ビフテキを食した後の口直しに浅漬けを食する如き心境で渚に接したのであった。 渚と知り合って一月ほど経た休日、彼女を誘ひ、梅雨が明けたばかりの海へ出かけたのも、単に、無為に過ごす休日が厭はしかったからに過ぎなかった。 謙治は、渚が少し変はった少女であることに気づいてゐた。 これまで彼が交際した女たちは、とりわけ交際の初期においては、彼との交際に有頂天となり、あたかも崇拝するが如き憧憬と含羞の浮かぶ瞳で彼を見つめることがしばしばあったが、渚には其のやうな素振りは全くなかった。 女を愉しませることにかけては天性の才を有し、然も其れを実践に依って磨ひてきた謙治であるから、渚も彼と接しては大いに愉快を感じてゐた筈で、事実謙治に向かってたびたび明朗なる笑顔を見せもしたが、その笑顔は同性の友人に向けられるものと何ら変はる所はなく、そこに謙治に対する女の媚びを読み取ることはできなかったのである。 かの休日、海辺のパラソルの下で共にランチを食した後の渚の行為も、謙治には意外であった。満腹した渚は、あらうことか、独りで寝入ってしまったのだ。他の女なら、謙治と過ごす一刻一刻を惜しんで常に謙治の側にゐたがるのが常で、あたかも互ひの関係に倦んだ夫婦の如く謙治を放置して午睡を貪ることなど、考へもしなかったであらう。これが裕一であったなら、渚の心外なる行為に立腹して叩き起こすか、或は、渚の熟睡を幸ひに、浜辺で甲羅乾しする女たちへの軟派行為に及んだやもしれぬ。しかし兄のやうに傲慢ではない謙治は、幼い渚の午睡に不快を催すこともなく、独り海に出て暫しの遊泳を愉しんだ後、渚の眠るパラソルの近くで所在なげに砂遊びに興じ始めたのであった。美青年が浜辺に両膝突いて、子供のやうに一心に砂の築城に取り組む姿は、それはそれで絵になった。 砂城が漸く完成の域に達した頃、謙治は、背後に人の接近を感じた。振り返らうとした刹那、背後の人蔭はいきなり彼の背に飛び乗ってきた。 渚であった。 飛び乗られて謙治は前のめりになり、慌てて両手を砂に衝いて、己の躰と渚の体重を四肢に支へた。頭上に少女の嬌笑が響いてゐた。 謙治は、不意を衝かれて吃驚（びっくり）したことは事実だが、十八の少女の稚気溢れる戯れに立腹するほど無粋ではない。形ばかりもがいて見せたが、もとより渚を振り落とす了見はなかった。程なく渚が彼の背から腰を上げ、挨拶代はりの戯れは終了するものと了解していたのである。 しかし、少女の方には戯れを了へる気はなく、更なる戯れを嗾（けしか）けてきた。 「謙治さん、渚のお馬さんみたい」 嬌笑が尾をひく声で云ふと、両膝で謙治の胴を締め付け、 「はいし、お馬さん、進め！」 と快活に叫んだのであった。 此の時謙治が、馬となって這ひ進むことを拒否し、動かないままでゐたなら、矢張り戯れはそれで終はってゐたに違ひない。 しかし、彼は瞬時に、渚の誘ひに応ずることに決めた。女に挑まれて尻込みすることは、彼の流儀ではなかったのである。 気恥ずかしさを微苦笑で糊塗しつつ、謙治は渚を背に、海水浴客で賑はふ浜辺を這った。 少女に請はれて馬を演ずる好青年の図は、海水パンツ一枚の男にビキニ水着の女が跨るといふ、半裸の男女の戯れであるにも拘はらず、淫猥の感寸毫もなく、家族連れも交へた健全なる海水浴客らの反感・顰蹙を買はぬばかりか、寧ろ微笑ましき光景として歓迎されたであらう。 謙治は、渚の馬を演じてゐる間、そのやうな海水浴客たちの好意と些かの好奇の混じった視線が自分に集中するのを感じ、冷かしの口笛さへ確かに聞いたやうな気がした。 しかし、其れは彼の過剰なる自意識の成せる業と云ふものである。 実際には海浜に遊ぶ者たちはそれぞれのことに夢中で、二人の姿など眼中になかった。仮に眼に入ったとしても、何らの印象も受けなかったのであった。それほどまでに、夏の海水浴場の風景に能く溶け込んだ、渚と謙治の戯れであったとも云へやう。 謙治は渚を乗せて二十メートル余りも這ったであらうか。速度を緩め、停止した。渚が立ち上がって背を離れると、謙治は道化て砂上に転がり、二人して笑ひあって、束の間の戯れは幕を降ろした。 他愛無い、戯れのひとときであった。 その後の半日を、二人は、遊興と語らひに愉しく時を過ごしたが、かの戯れが話題に上ることはなかった。余りに些細な出来事故に、二人の意識の上に上ることさへなかったのである。 其れが運命のひとときであったことに、その日謙治も渚もまだ気づひてはゐなかった。 |
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| ３．１９８７年７月１６日（木）７時４２分 夢 |
| 海水浴から帰って以来、謙治は、心ざはめく日々を送ってゐた。 何につけ、渚が想ひ出されてならないのである。 例へば―――、海水浴に行った次の日、彼は、渚など及びもつかぬ、洗練された美貌と絢爛たる肉体とを有する女と晩餐を共にしたのであるが、その最中にも、不図気づくと、心中に渚の面影を浮かべてゐたりするのであった。 自分ともあらう者が、渚が如き地味な小娘に心奪はれることなど有り得ぬといふ自負と、彼女の面影を想起すれば忽ち甘やかなる情感が横溢するといふ現実とが、彼の心中で激しく葛藤してゐたが、その葛藤の趨勢が次第に彼女への傾斜を深める方向に向かって行くことは、彼の強い自負心をもってしても如何ともし難かったのであった。 謙治には、不思議でならなかった。 何故に斯くも強く、渚に惹かれるのであらうか？ 優子と別れた直後とあって、妖艶な優子とは全く異なるタイプの、幼さの残る渚に、安らぎを求めるが故にであらうか？ 或ひは、渚の彼に対する恬淡たる態度が、却って彼の自負心（プライド）を刺激するが故にであらうか？ 謙治は、欲情した女が発する兆候（サイン）を見逃すやうな男ではない。それがどんなに微かな兆候であっても、謙治は敏感に察知し、女の心に芽生へた情熱を巧みに増幅してゆくのであった。ところが、渚は、彼に対してそのやうな兆候を一切発信しなかったのである。交際を始めてひと月になると云ふのに、房事は勿論、接吻も、手を握ることさへもない二人であった。謙治がそのやうな行為へと誘ふべく巧みに雰囲気を演出しても、渚は乗って来ないのである。女の拒絶が演技か本心からのものか、区別のつかない謙治ではなかった。 しかし譲治は、何れの理由にも、すっきりと首肯し難いものを感じるのであった。 何故なら、彼の渚に対する執心は、どう云ふわけか、あの海水浴の日を境に、俄かに増大したのであるから。 渚と海浜に遊んでから四日目の早朝。突如として謙治は、不思議を解く手がかりを得た。 謙治は、夢を見たのである。 夢の中で謙治は、緑滴る密林の、露に濡れた小径（こみち）を懸命に駆けてゐた。彼の背後に、錦蛇が迫ってゐる。謙治を一呑みに下しさうな、巨大な蛇である。大蛇（おろち）は、地面に這はせた太く長い身をくねらせ、迅速に、かつ執拗に追ってくる。気づくと謙治はいつしかとある駅の階段を駆け登り、列車に飛び乗って、列車は忽ち数駅を走り、執拗に尾行を続けてゐるかも知れぬ大蛇に脅へつつ列車を降りたら、そこは海浜で、数年前に叔父に連れられて訪ねた南洋・ブルジリア共和国のエルナン浜だった、にしては、かき氷屋の小旗など見ゆるはいかにも夢の中故、突如人の消えた南国の砂浜を、寄せては返す汀の波に足洗はせつつ歩ひてゐると、かなたから海水パンツ一枚の兄の裕一、水着姿の優子・渚と一緒に談笑しながらやってきて、謙治が軽い嫉妬を覚へつつ挨拶すると、渚はにこやかなる笑みを浮かべて「貴方のお兄さんはとても好い馬よ」と云ひ、見れば渚は何時の間にか四つん這ひの裕一の背に悠然と跨ってゐる。謙治が渚に「蛇は大丈夫か」と問ふと、渚は裕一の背上で艶然と微笑み、尻に敷いた裕一を励まして砂浜を進む。渚の白い水着からはみ出た腿尻が裕一の裸の背で揺れる。裕一の裸の背で揺れる。裕一の裸の背で揺れる渚の白い腿尻。「さては、渚は白蛇の化身であったか」と気づいたとき謙治は既に裕一に代はって渚の馬となってゐて、なめやかに白い渚の脚が謙治の胴に絡まり、締め付ける。締め付ける。渚は謙治の背に跨ったまま踵を謙治の股間に押し当て謙治の股間を捏ね回し、渚の踵に捏ね回された謙治の股間はぬるい昂りを覚え、ぬるい昂りは募り、募る昂りは抑圧しなければと思ふのだが、渚の踵に執拗に捏ね回されて益々昂り、もはや我慢できないが、それでも我慢しなくてはと思っても、矢張り我慢できない。渚の踵に捏ねくりまはされて膨張した昂まりは、つひに臨界に達し、満タンの消化器が暴発して無尽の射出。射出。射出。 危（ヤバ）いっっ！・・・・・破ッと気づいた謙治は忽ち覚醒したが、時既に遅く、彼は下着を一枚処分しなければならなかった。 謙治は、夢のお告げなど信じる神秘家ではないが、夢には本人も気づかぬ意識下の願望や怖れが露顕すると云ふ説は識ってゐたし、十分に根拠あるものとして納得してもゐた。 とは云へ、その朝見た夢を、自分自身の深層の心理の顕れとして受け入れることには、大いなる抵抗があった。 自分が渚に惹かれる原因は、かの他愛もない馬遊びなのであらうか。まさか、そんなことは、あらう筈もない。 謙治は、夢を単なる雑夢と片付け、忘れ去らうとした。 しかし、忘れることはできなかった。 昨日までの、漠然たる渚のイメージに代はって、彼女の馬となって浜辺を這ふと云ふ、何とも変はった妄念が、四六時中頭を去らないのである。そのやうな恥ずべき妄念を頭中より払拭しやうと努めたが、抑へやうとすればするほど、渚の馬になってのあれやこれやの情景が湧いてきて、謙治を苦しめるのであった。 若い謙治は、昼となく夜となく湧き出る煩悩との闘ひに疲れ果て、ほどなく無益な闘ひを放棄した。煩悩の軍門に下り、妄想が湧けば存分にそれに耽ることに決めたのである。 湯浴みの後など、独り暮しを幸ひに、居間を全裸で這ってみることさへした。渚を背に乗せたつもりで、部屋を何周も這ひ廻ったり、四つん這ひのまま静止して渚が乗り跨る瞬間を夢想したりした。目を閉じれば、渚に乗られた海水浴場の情景が浮かぶ。大勢の海水浴客のゐる前で少女の馬を演じることの羞恥と晴れがましさが蘇ってくる。 しかし、再び目を開け、居間に独り全裸で四つん這ひになってゐる、滑稽なる己の姿に気づいたとき、謙治の胸を、何とも云へない虚しさが去来した。 彼の背は、渚の体重を切実に欲してゐたのであった。 |
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| ４． |
| 世の中に色々と奇妙な嗜好があることは謙治も識ってゐたし、彼自身体験してもゐた。謙治が懇（ねんご）ろになった女の中には、通常の情交に飽き足らず、変はった趣向を欲する者がゐたのである。 例へば、渚と知り合ふ直前まで交際してゐた優子もその一人であった。謙治は、時折彼女の求めに応じて、優子の手足を寝台に縛りつけたり、目隠しを施したり、或は頬を軽く打（ぶ）ったりすることがあった。そのやうな暴力の演技を施すや、優子の頬は桜色に上気し、見目良く開いた唇からは早くも恍惚の吐息が漏れるのであった。冷たいまでの美貌が驕慢な印象すら与へ、他の男たちから憧憬の眼差しで仰ぎ見られる優子が、謙治の前では矜持を捨て去り、彼に虐められて嬉々とする姿を見るのは、謙治にとってけして悪い気分ではなかった。 此のやうに、女を悦ばせるために虐めてやることはあっても、女から虐められることなどは真っ平御免の謙治であった。世の中には、女に鞭打たれたり、縛られたり、蝋を垂らされたりして悦ぶ、変はった男たちが存在するが、謙治には彼らの心理が理解できないし、また、男を虐めることに性的な悦びを見出す女が存在することも信じられないのである。 彼らの行ふ特殊な性愛遊戯の一つに馬遊びがあることは、謙治も承知してゐた。しかし、渚の馬に成りたいといふ彼の妄念は、そのやうな所謂（いはゆる）マゾヒズムとは異なるものであるやうに謙治には感じられてならないのであった。彼の理解によると、マゾヒズムとは、異性に痛苦を与へられることが逆に性的な悦びにつながると云ふ、奇妙な性的嗜好のことである。さうだとすれば、渚との馬遊びの夢想に性的興奮を覚へたとしても、其れはマゾヒズムとは云へない筈だ。渚の馬になることは、何らの痛苦も伴はないのであるから。 「マゾヒストが女の馬に成って悦ぶのは、女から乗馬鞭で打たれ、痛めつけられるからであらう。しかるに、俺の場合は、渚に鞭打たれ、痛苦を与へられることは希んではゐない。しからば、渚の馬になりたいと云ふ俺の妄念は、マゾヒストの抱くそれに似てはゐても、本質的に全く異なるものである」 ――かう考へ、どうやらマゾヒストなる異端者のレッテルを自らに貼らずに済みさうだと安堵した謙治であったが、仮令（たとへ）さうだとしても、渚の馬に成りたいと云ふ妄念自体の珍妙さと恥ずかしさに変はりはなかった。 勿論、渚をその戯れに誘ふが如き破廉恥な振舞は、謙治の到底為しうる処ではない。男としての沽券も、年長者としての体面も、丸潰れとなるからである。また、その戯れに相応しい場所もなかった。既に述べたやうに、渚は、謙治と二人切りで密室に入ることを了承するやうな兆候を全く発しないのであるから。 彼に惚れてゐる女の中には、彼の望む遊戯ならたとへ如何なるものであらうとも喜んで受け入れ、応へて呉れるに違ひないと思はれる者もゐたが、謙治は、そのやうに彼を崇拝する女の馬に成りたいとは想はなかった。謙治より年若いにも拘はらず、ときに彼を見下げてゐるのではないかとの疑念さへ抱かせるやうな、どこか醒めた目をした渚が、彼を馬にして背に打ち跨るといふ夢想に耽る場合に於いてのみ、謙治は甚だしい興奮を覚へるのであって、他の女では駄目なのであった。 然う斯うするうちに謙治の学校も渚の学校も共に土用の休暇に入った。渚にとっては大都会で独り暮らしを始めて以来初めての、そして謙治にとっては最後の夏休みであった。 悶々たる日々を過ごしてゐた謙治は、当の渚に逢ひさへすれば苦悶も多少は和らぐかと思はれ、彼女を誘って晩餐を共にしてみたが、逢へば逢ったで、あたかも恋知り初めし少年の如く、激しい動悸に悩まされ、しかも、彼女と別れし後の苦悶は、逢ひ見る前に倍する心地がするのであった。 この頃謙治は頻（しき）りに或る夢想に耽るやうになってゐた。渚を誘って、かの夢に出てきたブルジリア共和国のエルナン浜に遊ぶと云ふ夢想である。 |
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| ５． |
| 南海の楽園、ブルジリア共和国。 政情不安と経済危機、及びそれらに伴う社会治安の乱れが付き物の第三世界にあって、この国ばかりは殆ど特例と呼び得るほど政治が安定し、治安も良好に保たれていた。経済の方は第三世界のご多分に漏れずの感があったが、楽天を以って信条とする国民性からか人々の顔は明るい。 五年前から去年まで、謙治の父親はそのブルジリア共和国に単身赴任してゐた。謙治が大学に入学した三年前の夏休み、彼は叔父に伴はれて父親の許を訪ね、半月余りを過ごしたのであった。その折、叔父は自身の観光も兼ねて、謙治を連れてブルジリア国内のあちこちを旅したのであるが、その訪問先のひとつがエルナン浜であった。 当時、ブルジリア共和国では、漸く観光産業が勃興しつつあり、各地に主に外国人旅行客を目当てにした観光宿泊施設の建設・整備が進んでゐたが、その中で最も遠隔の地にある施設からさらに車を走らせ、丘ひとつ越えたところに、エルナン浜はあった 。 浜は、曙海亀（アケボノウミガメ）と呼ばれる種類の海亀の、集団産卵の場所であると云ふ。海亀の産卵期には、夥しい数の亀が砂浜を被ひ、その卵を採取する地元民で賑はふらしいが、謙治らが訪ねた時には人の気配さらさら無く、未だかつて人に踏まれざるが如き原始の景観の中で、ただ潮騒だけが静寂を乱してゐた。 邦貨高騰の影響もあって海外旅行は既に珍しくなくなってゐたとは云へ、ブルジリア共和国は、国名を知る者さへ稀であった。たまさか同国を観光旅行する物好きな邦人はゐても、エルナン海岸まで来るやうな者は先ずおらず、さてこそ、新奇好みの叔父の食指を動かしめたのであった。 もっとも、叔父の目当ては、洋雑誌で知った、浜を埋め尽くす海亀や、地元民が亀の卵を採取する様子を見ることであり、また、希代の食道楽とあって、あはよくば珍しい曙海亀の卵料理のあれこれを食してみたいとの希みも抱いてゐたのである。其の点、彼にとってはすっかり当て外れの旅であった。しかし、謙治はこの浜に来て、叔父とは異なる感想を抱いたのである。 外（と）つ国への初めての旅は、見聞するもの全てが謙治に強烈な印象を与へたが、わけてもエルナン海岸は彼の追憶に深く残った。 国外旅行の味を識った謙治は、アルバイトで金を貯めては、年に１〜２度、外遊するやうになった。大抵は女友達を同伴しての旅で、行く先も専ら彼女らの喜ぶ欧州や北米であった。どの旅にもそれぞれに思ひ出があり、また、経験を重ねたことによりすっかり旅慣れた謙治であったが、初めての国外旅行の強い印象に若くものはなかった。 父親の帰国により、ブルジリア共和国との縁は途絶へたが、成らう事ならいま一度、ブルジリア共和国を旅し、エルナン海岸を訪ねたいと、謙治は考へてゐた。やがて其れは、漠然たる憧れに留まらず、具体的な計画の形を成すやうになった。社会に出てからでは、気侭に休みを取るのは困難であると考へた謙治は、卒業直前の春休み、学生時代最後の外遊として、優子を伴ってブルジリアを訪ねることに決め、その為の準備を進めてゐたのである。 優子との関係が疎遠になるに伴ひ忘却してゐたこの計画であったが、今や再び謙治の心中に蘇り、謙治は、かつて優子と行きたいと想ってゐた以上に激しく、渚とそこへ行きたいと願ふやうになった。即ち、彼の夢想は、単なる夢想に留まらず、十分実現の可能性のあるものであった。とは云へ、渚が承諾しない限り、それは畢竟、夢想に終はる定めであった。 |
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| ６．１９８７年７月２４日（金）午後２時３０分 昼食 |
| 渚が、その名に負ふ通り海が好きであることは、予てより謙治も識ってゐた。当然、謙治はエルナン浜の話もしてゐた。彼の語る異国の浜辺の話を、渚は目を輝かせて聴いたものであった。 そんな渚ではあるが、二人してかの地に行こうなどと云ふ途方も無い話においそれと乗って来やう筈のないことは謙治も承知してゐた。従って、夏休みに入って三日ほど経った或る日、Ｅ電と私鉄・地下鉄が何本か交叉する街の映画館で恋愛活劇を鑑賞した後、映画館近くのレストランで遅い昼食を共にしてゐたときに、謙治が渚にブルジリア共和国への旅を仄めかしたのも、あくまで冗談めかしてであった。 謙治の誘ひに、渚は、まあ嬉しいわと、これまた端（はな）から冗談を承知の上での笑ひ声で応へ、行くなら早い方がいいわね、この休みはどうかしら、などと心にもない軽口を付け加へたのであった。 そんな急にはムリだよ、旅券も要るしね、あらパスポートならこの春私の入学祝ひに家族でハワイに旅行したから持っているわよ、それよりビザも要るわね？ いやブルジリアの場合、査証は要らないんだ、でも随分お金がかかるんでしょう？任せとけ、渚ちゃんの分くらい出してやるよ、まあ太っ腹ね、でも、風土病なんかはないのかしら？ 一部にはマラリアが残ってゐるらしいけど予防薬を呑んでれば大丈夫だよ、泊るのはどんな処？ 首都のホテルは立派なものだよ、エルナン近くのは、小さくて、豪華じゃないけど、植民地時代の建物をそのまま使ってて、こざっぱりとした居心地のいいホテルだ、それよか、渚ちゃんの家の人が心配して許してくれないだらうね、大丈夫よ、父も母も私がバカ娘じゃないって知ってゐるもの・・・・・ と、軽口の応酬の中に互ひの都合や状況を探り合ひつつ、架空の旅行計画は進み、食後のお茶を飲む頃には、行くならお盆明けがいいね、などと、具体的な日程の相談にまで進んでゐたのであった。とは云へ、それはあくまで「仮に行くならば」と云ふ仮定の上での夢物語であり、本気を装った冗談の雰囲気があった。 このやうな好機を逃さないのが謙治の得意とするところである。昼食後早速、 渚を誘って、同じ街にある格安航空券を扱う店を冷やかし、係員を捕まへて、どのやうな便があるかを調べて貰った処、七月末に価格も乗り継ぎも絶好条件の便があることが判明、残余は三席とあって、即座に予約を入れたのであった。 出発まで一週間もなかったが、旅先の宿泊施設や賃貸自動車の手配等は既に謙治が見当を付けており、予約を入れれば準備完了。外貨の購入や、旅に必要なあれこれの品を二人で買ひ揃へるなどしてゐるうちに、待ち望む間もなく出発の日となってゐた。 |
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| ７．１９８７年８月２日（日）１２時２６分２０秒 エルナン浜 |
| 「信じられないわ・・・・」 浜辺で、渋々ながらの口調とは裏腹にどこかいそいそとした風情で四つん這ひとなった謙治の背を跨いだまま、腰を落すこともせず、潮風が乱した髪を掻き揚げた時、渚の胸を、四日前、異国に向かふ飛行機が轟音と共に祖国の地を離れた刹那に覚へたのと同じ感懐がよぎった。 渚が、今、ブルジリアの海岸に立ってゐると云ふ現実を、信じられないと思ふのも無理はない。謙治と遇ふまではその名すら知らず、わずか十日前までは何の所縁もなかった、遠い異国のこの国に、かうして来てしまったのだから。 食事時の他愛もない軽口の応酬の筈が、ジェットコースターの如き急展開の成り行きによって、あれよあれよと云ふうちに、現実のものとなって行ったのである。瓢箪から駒が出るとは、まさにこのやうな成り行きを云ふのであらうか。 これまでにも謙治が、迅速にして果敢なる行動を展開し、渚が思考する間もないうちに彼のペースに巻き込んでしまふ傾向があることは、渚も識らぬでもなかったが、しかし流石に今回ほどのものは例がなかった。 さらに、そのことと並んで渚が愕いたのは、旅費を負担すると云ふ彼の申し出を、素直に受け入れてしまった己自身に対してであった。普段であったら、そのやうな申し出を易易とは受諾しなかったであらう。謙治への遠慮の故にばかりではなく、彼女の矜持にかけても。 「金銭には清廉なるべし。他人から故なく施しを受くるは、恥ずべきことなり」との躾を施され、友人に僅かなお茶代を奢られることすら潔しとしない渚である。まして、知り合って一月余りにしかならぬ謙治に、国外旅行に要する多額の旅費を負担させるなど、本来なら考へられぬことであった。 渚をしてその考へられぬ行動を成さしめたのは、自己の廉潔に対する矜持よりも強い、謙治と異国の浜辺を訪ねたいといふ欲望であった。 滅多に人の姿を見ず、原始の姿を留めた、南洋の美しい浜辺。謙治の話に何度か出てきた、その浜辺を、訪ねてみたい。そして、叶うことなら、あの遊びを心行くまで愉しんでみたい。この欲望の前に、彼女の廉潔は敵ではなく、経費は将来返せばよいと云ふ自らへの口実の下、謙治の申し出を受諾した渚であった。 踏み開いた脚の間に謙治の躰を挟み、騎乗を誘ふが如くに撓められた彼の背を見下ろしながら 、彼女が抱いた、現実が信じられぬとの感懐には、離陸する旅客機の中で覚へたものとは微妙に異なるものがあった。それは、叶へられる筈のない欲望がかうして実現しやうとしてゐることへの悦びであった。手指で髪を梳きながら、渚は、その悦びを心中に噛み締め、味はってゐた。 信じられぬ思ひは、謙治とて同様だった。まさか渚が同じ遊びを欲してゐたとは想像だにせず、僅かばかりの可能性に希みを託してここまでやってきた彼にしてみれば、その可能性が現実のものに成らんとする成り行きに、夢かと疑ふ気持が湧いてくるのは無理からぬ処であった。 国内や海外の、遊客で混み合う、名の知れたリゾートではなく、人跡稀なこの浜で、思ふ存分、渚との戯れに耽りたい。叶ふ筈もないこの夢想が、実現へ向かって一気に傾いた、九日前の昼食の時。謙治は、突如芽生へたその可能性を、可能性で終はらせない為になら、如何なる犠牲も厭はぬ覚悟を決めた。 最大の課題は、資金の工面であった。 そもそも謙治は、女に金を遣はぬ主義で、逢瀬の際の飲食の代金等も割前勘定を原則としてゐた。女が飲み食ひした分の代金まで払ふのは、如何にも彼女に付き合って頂いているやうで、謙治のプライドが許さなかったのである。逢瀬の費用を全て負担してまで付き合っていただくなど、金の力を借りて女の歓心を買ふが如きは、余程女に縁のない男の所業だと、謙治は信じてゐた。 逢瀬の経費は全て男が負担するものと信じて疑はぬ女の中には、そのやうな彼を、けちの謙治、略して「ケチケン」と酷評する者もゐたが、謙治はその風評を少しも意に介さなかった。女に金を遣はぬのは、吝嗇の故にではなく、自尊心によるものであるとの信念を堅く抱いてゐたからである。 しかし、流石の謙治も、今度ばかりは旅行の経費を全て負担する積もりであった。さもなくば、夢想を実現できさうにないからである。 謙治の懐具合は比較的恵まれてゐた。生活費と学費は親からの仕送りに頼り、家庭教師のアルバイトで得た金を遊興に宛ててゐたのであるが、これが実に割りの良いバイトで、時給に換算すれば高給を食む勤め人の顔色を失はしむるほどの実入りがあった。その為、遊興に遣った後にも若干の蓄へが残っており、更に貯へを増して、優子と行く予定であった卒業前の旅行に宛てる積もりであった。しかし、思ひがけない事情で旅行の予定が早まり、しかも二人分となると、貯へた金だけでは不足であった。 旅行を実現するには、足りない分を即急に工面しなければならない。やむなく謙治は、兄の裕一に頭を下げて借金を申し入れた。弟が借金を申し込むなど、今までになかったことであったが、父親ではなく自分に頼むからには、さだめし女との交際にでも遣ふ金の類であらうと裕一は目星をつけ、金の遣ひ途を敢へて問ひもせず金を貸してくれた。ただし、女性との交際においてのみならず、金銭感覚のしっかりしてゐることにかけても弟以上の裕一であるから、借用書を書かせ、相応の利息まで要求したのであった。これは、謙治も予期してゐたことであるから、躊躇ふことなく借用書を提出した。借金は、就職してから返す算段であった。就職したらしたで、何かと物入りが予想されたが、将来を質に置いても、目前の渚との旅行を実現したい謙治であった。 旅行が実現したとしても、渚を件（くだん）の戯れに誘導しうるか否かは全くの未知数であった。何はともあれ、かの国に着いたらエルナン浜を訪ね、見る者とてない開放的な浜の雰囲気の中で遊戯に誘ってみやうとは思ふのだが、仮にそこまで漕ぎつけても、渚が拒否すればそれまでであった。 そんな謙治にとって、渚の方からの誘ひは、まさに棚から牡丹（ぼた）餅と云ふべき僥倖であった。彼は、落ちてくる牡丹餅を零すまいと逸る気持を、渚への体面上懸命に抑へ、嫌嫌ながらを装って四つん這ひとなったのであった。 勿論、その背が受け止めるのは、牡丹餅ではない。 餅よりも柔らかく、弾力に富んだ、渚のお尻である。 |
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| ８．１９８７年８月２日（日）１９時１４分 夕食 | ||
| 暮れなずむ海岸を眼下に見下ろすホテルの、大きな窓が開け放たれたレストランで、渚と共に晩餐を愉しんでゐた譲治の鼻腔に、熱帯の夕風が仄かな潮の香りを運んできて、彼の脳裏に、昼間の浜辺の光景を蘇らせた。謙治は悲哀にも似た想ひを、ワインとともに嚥下した。 それは、あまりに呆気なく終った。こんなことのために、わざわざここまで来たのかと思ふと、苦い後悔すら込み上げてくる。 渚を背に載せて、浜辺を這った。 只、其れだけのことであった。 暫く這ってみたものの、夢で感じたやうな奇妙な心地良さなど少しも湧ひてこなかった。渚もどこかぎこちない感じで、戯れを心底愉しんでゐる様子ではなかった。 莫迦莫迦しくなった謙治が、 「もういいだらう？」 と云はんばかりに止まると、渚もすぐに彼の背から腰を上げ、そのまま二人して砂に寝転がった。 「ああ、重たかった」 その場の空気を取り繕ふやうに、謙治がおどけた風で云ふと、 「あら、あんまりだわ」 渚も笑ひながら応へたが、その笑ひ顔は硬直してゐた。 そんな風だったから、その戯れがその後二人の話題に上ることはなかった。その点では、初めて海水浴に行った日と違ひはなかった。 ただ、今回違ってゐたのは、二人は意識してその話題を避けたのである。 植民地時代の遺構を利用した木造のホテルの中にあるレストランには、客もまばらであった。遠い異国の、ほの暗いレストランで、渚と二人で夕食を摂ってゐると、渚に対する愛おしさが湧いてきて、彼女を抱きしめたくなる謙治であった。 思考の切り替への早い謙治は、こうなったらもうあの戯れのことなど忘れ、折角の旅行を思ふ存分愉しむことにした。山海の美に恵まれたブルジリア共和国には、余所では見られぬ風光明媚な地が点在してゐる。ここにもう一日滞在して疲れを癒したら、かつて叔父に連れられて行った景勝地を、渚と訪ねてみやう。 渚と今後の旅の計画など話し合ふうちに、葡萄酒の酔ひと、これまでの旅の疲れとが重なり、謙治は俄かに眠気を催した。
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| ９．１９８７年８月３日（月）午前 エルナン浜 | ||
| 翌朝。二人は早起きして朝食を済ませると、再びエルナン浜に向かった。 ホテルから車で小一時間、昨日と同じく山あひの道を上り下りして、小高い丘の麓に着く。車を茂みの蔭に隠して、丘の小道を上る。上り詰めると、眼下に、鬱蒼たる熱帯林に囲まれた浜が広がってゐた。まさに原始の景観であった。海水浴のためだけなら、わざわざこんな処まで来なくてもホテルの真下に美しい浜があるので、ここまで足を伸ばすやうな観光客はまずゐない。着替へや飲料や食物を詰めたリュックを背負って丘を上ってきた二人は、ここで一息ついて汗を拭ひ、暫し景観を楽しんだ。 丘を下り、森の中の小径を行くと、ほどなく木立に囲まれた広場に出会ふ。広場の一遇には小さな木造の建物がある。海亀の産卵の季節ともなれば、泊りがけで卵を採りにくる地元民が野営の基地として使ふ建物で、屋外には渓流の水を引いて簡易な水道やシャワーも設へてある。ここまで来れば、浜は近い。 二人は無人の建物に入り、別々の小部屋で水着に着替へた。 建物から先ず出て来たのは謙治である。謙治の黒い水着の上下には、隆々たる筋骨が伸びてゐる。高校時代には競泳の全国大会に出場し、大学では漕艇部で活躍した謙治の、鍛へ抜かれた肉体である。 次いで渚が現れた。上下に分かれた青い水着が躰の一部を被ひ隠してゐるが、布地のはちきれんばかりの膨張が、却って彼女の発育を顕（あらは）にしてゐる。とは云へ、そこに肥満の兆候は片鱗もなく、その伸びやかなる肢体からは乙女の清楚可憐が溌剌たる輝きを放ってゐる。 周囲に人の気配は全くなかったが、二人は用心のために荷物を携へ、サンダルを履いて浜に出た。 南国の浜は、朝の光の中に輝いてゐた。 謙治たちは、波打ち際まで行くと、サンダルを脱ぎ捨て、紺碧の空と煌く大海原に見入った。頭（かうべ）を巡らせれば、白く輝く真砂の浜が広々と広がってゐる。二人きりの果て無き空間。 その時、彼らを、或る衝動が襲った。 もはや二人に儀礼や冗語のやりとりは必要なかった。 謙治が突然崩れるやうにしゃがみこみ、砂上に諸手を突いて這ふと、渚は彼のがっしりとした背に躊躇（ためら）ふことなく打ち跨った。 謙治の背に腰を落ち着けた渚は、両手を謙治の双肩に預けて姿勢を安定させると、踝を煽って、謙治の腿を軽く蹴った。 それを合図に、謙治は砂上を這ひ始めた。 二人には、前日の如き過度の気負ひはなかった。従って緊張もぎこちなさもなかった。ただ馬遊びの愉悦だけがあった。 謙治は、黙々と這った。 這ひながら、渚と会話を交はしてゐた。 言葉を介さぬ、一方通行の会話であった。 渚が、彼の脇腹を挟んだ膝を締め付ければ、それは即ち 「止まれ」 と云ふ彼女の意思を伝へる肉体言語であり、 彼女の意思に従って即座に止まることが、即ち彼の応答であった。 渚が、踝で彼の腿を蹴れば、それは即ち 「進め」 と云ふ彼女の意思を伝へる肉体言語であり、 彼女の意思に従って即座に進むことが、即ち彼の応答であった。 方向を変へるのも、速度を上げるのも緩めるのも、全て渚の意思によるものであり、その意思を、渚は、言葉ではなく、足蹴や膝の動きによって一方的に伝へてくる。まるで、人ではなく、動物を扱ふが如くに。 年若い娘にそのやうな扱いを受けながら、謙治は少しも不快を感じない。むしろ、そのやうに渚に馭され、彼女の意の侭に乗り廻されることが、何故か無性に嬉しいのである。 渚が彼の背に乗り跨ったとき――彼女の体の重みを背に受け、脇腹に彼女の脚の素肌がおしあてられたとき――、謙治は、ほのぼのとした悦びが湧いてくるのを覚えた。渚に馭されて浜を這ふうちに、その悦びは急速に膨張し、謙治は恍惚とするやうな歓喜にひたされていく。その歓喜には、激しい、迸るやうな官能の興奮が伴ってゐた。それは謙治の肉体が生まれてこのかた初めて覚へた悦びであって、彼がこれまでに経験してきた如何なる女との関係も、かくばかりの悦びを彼に与へたことはなかったのである。 思へば、謙治は、これまで数多（あまた）重ねてきた異性との交合に、真の充足を感じたことはなかったのであった。 同性愛者ではない謙治としては、女からの行為への誘ひに応へることには吝（やぶさ）かではなかったし、応じた以上、誘った女の期待を十二分に満たしてきたのではあったが、その行為の結果として彼自身が得るのは、単に溜まってゐたものを解放する感覚と、徒労のみであった。懸命に腰を振るその行為自体、謙治には滑稽な動作に思はれてならないのであった。それでも彼がその行為に励んだのは、女を悦ばせること自体を悦びとする彼の性（さが）の成せるわざであった。 それに引き比べ、渚とのこの戯れの、蜂蜜の如き、とろりと甘美で重厚な味はひと云ったらどうだらう！ 彼女の体重の全てを四肢に支へ、彼女の思ふがままに浜を這ひながら、謙治は渚と一体となる悦びに満たされてゐた。それは、彼が其れ迄に経験した肉の交はりによっては得られなかった一体感であった。その一体感の中で謙治は、渚を痛切に愛してゐる己（おのれ）を感じた。 海亀の季節以外はおとなふ人も稀とは云へ、村人や物好きな観光客がやって来ないとも限らぬ浜である。二人の戯れが目撃される可能性は、無きにしもあらずであった。 しかし、小娘の馬になって嬉々としてゐる処を、知る者とてなき異邦の地で、異国の人に見られたからとて、何の障りがあらうか？ むしろ、渚の尻に敷かれ、支配されてゐる己の姿が、人に見られてゐるかも知れぬと想ふと、謙治はどう云ふわけか一層の興奮を覚えるのであった。
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| 10． | ||
| 法律上、渚は、飲酒を許される年齢に達してゐなかった。とは云へ、独り暮しを始めてから、友人に誘はれ、麦酒や葡萄酒を口にしたことがないではなかった。しかし、酒は彼女の体質に合はぬやうで、飲酒の効果はただ彼女に頭痛と嘔気を催させたのみであった。 従って飲酒の愉しみを識らぬ彼女であったが、書物などで読む「陶然たる心持ち」とはこのやうな心地を云ふのであらうかと、謙治の背上に座しながら渚は思った。 謙治と初めて海水浴に行った翌日から、渚の心を妖しく染め始めたのは、このやうな心地に対する渇望であった。浜辺での、あの他愛無い、一瞬の戯れ。それは、余りにも些細な出来事の故に、当日は何らの印象をも彼女の心に残さなかったが、日が経つにつれ、何故かあのひとときのことが思ひ出されてならず、しかもその追憶には、性的な快感が伴ってゐた。 思へば、あのとき渚は初めて異性と肌擦り合はせたのであった。 渚が謙治と交際してゐるのは、恋愛感情と云ふよりも、世間体の故にであった。 「白大の貴公子」の異名が彼女の大学にまで轟き、あたかもアイドルの如く持て囃される謙治を、ボーイフレンドに持つと云ふステータスは、渚のプライドを大いに満たしたのである。 と同時に、それは、彼女の秘められた性的嗜好を世間の目から隠蔽する機能をも果たした。 渚の恋愛感情は、常に同性に向けて発現してゐたのである。 既に小学生の頃から、渚は、美少女に対する思慕の感情を自覚してゐた。その傾向は、中学・高校を私立の女学校と云ふ女の園で過ごすうちに、決定的となった。 彼女が同性に惹かれたのみならず、彼女自身、先輩の女学生からは不思議なほど可愛がられ、後輩からは慕はれ、憧れられた。彼女を憎からず思ひ、或ひは彼女を慕ふ、そんな女学生たちから、ラブレターを貰ふことも珍しくなく、また、渚自身も幾人かの女学生に宛てて同じやうな文をしたためたものであった。 両者の想ひが合致して、シスター、略してエスと呼ばれる関係に発展することもあった。親や教師にばれるとまづいので、そのやうな関係はひた隠しにせねばならなかったが、それ故に却って、彼女らの恋愛には、秘められたる背徳の香りが漂ひ、その共犯的感情が、二人の絆を一層深めるのであった。 高校生の頃、渚は、時折エスの相手と肉体的な交渉すら結ぶやうになった。互ひの躰をねっとりと鑑賞しあひ、指や口唇を使って相手の躰を慈しみ、愛ほしむ。 女性の躰って、なんて美しいのだらうと、渚は思ふ。頭髪から爪先に至るまで、パーツのひとつひとつがあくまでも繊細で、柔らかく、優美に造られており、しかもその全てが、たをやかな曲線の中に按配よく配置されてゐる。とりわけ渚が愛したのは、彼女と同じく、贅肉のない、羚羊の如きスリムでしなやかな女の躰であった。 一方、それと対照的に、ごつごつと強（こは）張り、余分な剛毛まで生へた、醜悪な男の躰に対して、渚が、嫌悪感以外に抱いた感情があるとすれば、それは軽蔑と恐怖であった。 そんな渚も、美しひと思ふ男の容貌に出会ふこともあったが、それは彼の顔立ちが女を思はせる場合に限られてゐた。細い眉。髭のないすべすべの顔肌。ほっそりとした鼻。華奢な顎の線・・・・・。 この点、謙治の秀麗なる容貌は、男臭さと云ふものが感じさせず、渚の好みにまずまず合致した。しかし、彼の逞しい体躯は、彼女の嗜好する処ではなかったのである。 であるにもかかはらず、渚が謙治との交際をつづけたのは、仲間に対する見栄と云ふことを別にすれば、彼が会話と行為で渚を愉しませ、かつ、「男女の関係」を押し付けてこないからであった。彼女の友人の話によると、男の大半は女性との交接しか頭になく、隙あらば――否、女性の側に隙などなくても――何とか交接に持ち込もうとするものらしい。しかし、謙治の態度には、そのやうなガツガツとした浅ましさは全くなかった。即ち彼は、異性の友達としては申し分なかったのである。 このやうな次第で、謙治に対しては友達以上の感情を抱くことのなかった渚であったが、かの海水浴場で経験した馬遊びは、彼女の心に奇妙な官能の火を灯し、やがてそれは妖しい炎（ほむら）となって燃へ上がったのである。 「もう一度、あの遊びをしてみたい」 あくまでも物の弾みと云ふやつで其れを行った初回と異なり、謙治に改めてかの戯れを誘ふのは流石に躊躇（ためら）はれ、また、誘ふにしてもしかるべき機会が必要であった。たとへ謙治が拒否しても、軽い冗談で済ませられるやうな。 昨日は、思ひがけずその好機が到来したのであるが、悦びの余り、つひ気負ひ込み、舞ひ上がってしまった。謙治の背に跨ったまではよかったが、男に乗り跨る気恥ずかしさや、秘めたる欲望を謙治に見透かされはしまいかとの思惑もあって、落ち着いて馬遊びを楽しむどころではなかったのであった。 しかし、今日は違ふ。渚のみならず実は謙治もその戯れを好んでゐることはもはや明白であった。彼は、渚が頼みもしないのに、彼女の足許に四つん這ひとなったのである。さうであるなら、何の気兼ねが要るものか。昨日の経験と、一日の時の流れは、渚の心に、謙治との戯れを楽しむ余裕を生じしめてゐた。 謙治の背に腰を下ろし、彼のがっしりとした胴を両腿に挟んだとき、渚に仄かな恍惚の予兆が訪れた。 「さあ、お馬さん、進め！」 姿勢を落ち着けた渚は、おどけた調子でさう云ほうとした。しかし、声が出ない。代はりに、両足で謙治の腿を軽く蹴った。声で命ずるよりも、足蹴で合図を与へる方が何故だか相応しいやうに思へたからでもあるが、意識してさうしたわけではなかった。普通なら、年上の男性に対して為し得る所業ではない。しかし、謙治は、彼女の無礼に対して何ら咎めることなく、唯々として彼女の意思に従ひ、這ひ始めた。 一歩、一歩、謙治は這ひ進む。渚の尻と腿に、逞しい肉の蠢（うごめ）きが波のやうに伝はってくる。そのこりこりとした感触を、渚は柔肌に味はう。 もちろん渚に悦びを与へてゐるのは、単なる肉の感触ではない。その感触の由来する処、即ち、美青年を膝下に跪かせ、尻に敷き、思ふが侭に乗り回してゐると云ふ事実である。 「もっと、もっと、何時までも乗りつづけてゐたい。彼がへとへとになっても、赦してあげない・・・・・」 渚は、謙治の背に揺られながら、彼が終に堪へきれず、潰れる様を想像してみる。彼女に、犬の如く忠実に仕へ、精根尽き果てて倒れた男。この男の心も、躰も、全て私のモノなんだ。私は、この男の全き支配者なんだ。さう思ふと、異様な興奮が込み上げてくる。 やがて、謙治の躰が汗ばんでくる。ほどなく、汗は、滴となって垂り始める。汗に濡れた謙治の躰は滑りやすく、渚は両腿でしっかりと彼の躰を締め付ける。渚の肌も濡れてゐる。濡れた肌と肌がぬらぬらと圧し合い、擦れ合う。律動的な肉の動き。 渚の躰を、蕩（とろ）けるやうな快感が浸す。
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| 11． | ||||
| 謙治は、ひたすら這った。 鍛へ抜かれた彼の肉体にとって、彼女の体重が与へる負荷など、如何ほどもないと思はれたが、這ひつづけるうちに、次第に背に跨る女の躰が重く感じられるやうになってきた。 それよりもさらに耐へ難いのは、膝にかかる負荷であった。彼女の体重と己自身の下半身とを支へつつ、ざらついた砂の上をこすりつづけた彼の両膝は、ほどなく擦り剥け、血が滲み始めた。 それでも彼は、彼女を乗せて這ひつづけた。 憚るべき人目とてない、広漠たる浜の汀で、二人は愉悦を貪った。 ただ、波と風と熱帯の太陽だけが、渚の戯れを見てゐた。 青年よ。 やがて汝はその女の下僕（しもべ）となるであらう。 犬が飼い主を慕ふやうに、 その女を慕ひ、敬ひ、 汝の全てを捧げ渡して、 その女に仕へるやうになるであらう。
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